地元熊本に於いても、肥後古流の茶道を知る人はそう多くはあるまい。しかしお稽古を続ける人たちは「古流のお茶」を利休直流の茶法として敬愛し、日々精進している。千家同様三流の家元があるが、各々かっては細川藩で茶頭を勤めた家である。古市家、小堀家、古田家の三家であるが、古市家は大正期高弟武田智得が家元職を引き継ぎ今日に至った。古田家は近年活動を止められた。その祖は古田織部の弟である。現在は二流の家元と、相伝を受け教授の資格を得た方々が「古流のお茶」を後世に伝える為に努力しておられる。「古流のお茶」の伝承には高い精神性が求められ、伝承する事を「生業」とする事を禁じている。各々のお稽古場のささやかな看板以外、各種メディアでの広告などは論外である。しかしながら向後も心ある人々が、三斎公以来の肥後熊本の「茶の心」を育てはぐくんでいかれる事は間違いない。

 茶道肥後古流の祖は、利休の女婿・円乗坊宗圓の女婿・古市宗安である。この宗安が茶頭として細川家に迎えられた事がはじまりである。宗圓は利休の子道安、少庵にも伝えられなかった「極真の台子」の茶法を授けられた。宗圓は又、大名物黄瀬戸の茶入「円乗坊肩衝」を所持していたことでも有名である。古市宗安は京都の裕福な浪人横川理安の子である。理安は三斎の蹴鞠の御相手などもつとめたと云う。「極真の台子」の茶法は宗圓から、宗安に授けられた。後千家の再興にあたって又千家にも伝えられた。その後三千家は宗匠好みと称していろいろの変化を加えながら、今日の茶道の隆成をもたらした。吾が「肥後古流」は往時の形をなんら変えることなく今日に至った。
「利休直流の茶」と自負する所以である。

 昭和47年茶道研究家の磯野風船子氏は度々熊本を尋ねられ、利休の茶会における飾付けや所作が、肥後古流と極めて類似している事を認められ「肥後古流こそ利休の茶法」である事を茶道界に発表された。地元熊本では「当然の事」として冷静に受け止められた。細川三斎は「利休七哲」の一人として高名であるが、七人は全て武辺の人であり、利休時代のお茶はまだまだ武士の世界のものであったろうか。
「肥後古流」も又武士の茶である。茶室に帯刀は許されない事であるが、熊本の武士の左腰は刀を差す為の場所であり、袱紗を左腰につけることはしない。
挨拶の所作も軽く握ったこぶしを両膝脇の少し前に置き低頭する。美しい限りである。

 400年余何の変化も加えられず、営々として伝えられて来た事を私はありがたく思う。熊本が誇る偉大な文化であり遺産である。機会があれば是非「肥後古流」のお茶の世界を覗いていただきたい。春秋には細川家の歴代藩主のお墓がある泰勝寺でお茶会が開かれる。又お庭に肥後菖蒲の花がきれいな頃、八代松井家の松浜軒でも開催される。

(古市家、古田家、小堀家の事については省略した。「細川家侍帳」を参照いただきたい)