津々堂・電子図書館                                      

灰燼(下)の三

  恰も其時、馬蹄かつかつ風を侵して此方(こなた)へと来る者あり。父と温泉にありける猛は、已み難き要起りて、午過ぎより例の騎馬にて帰村の途に上がりしが、暴風に道の渉(はかど)りかねて、我村に一里半と云ふ所に来つれば、日はとつぷりと暮れぬ。暴風は愈々吹き募る。馬上提灯点す可くもあらねど、案内知ったる馬は夜道に迷はず、人は風に屈せず、足掻を早めて行く行くふと行手の空を見れば、夜目にもしるき八-----山の上少し黄ばみたり。
「おい、八----山の上は、あら何だ?」道端の茅舎(こや)より突然(ぬっと)出でたる黒影(かげぼし)に問へば、老爺の声として
「左様さ、----火事かね、眼が悪いで----」あとの語(ことば)は烈風に吹き散らされつ。              
「火事か知らん」呟きつぶやき五六町、眼を山上の微明(あかり)に注ぎて行けば、暫くは唯薄すりと黄ばめる明のふるうては消えなむとせしが、たちまち爆(ばつ)と朱をさす様に鮮やかになりぬ。
「ヤァ、火事だ、火事だ。何処の馬鹿が火事をやり出し居つたな、無用心極まる、此の風に!」罵りののしりまた半里、八---山の麓を一廻りして、青---村にかゝれば、火光いよいよ明らかになりぬ。道の真中には、村人四五人烈風に身を斜にして、火を望みつゝ
「此風にやりもやつたもんよ、喃(なあ)」
「左様よ、此分じや余程焼けようぜ」
「何でも山----村に違へねへ喃、彼稲荷山の一本松が右に見へるだから」聞くともなく耳傾けし猛はいよいよ馬を早めてまた半里、路は荒海の如くに吼ふる竹薮の村に入りぬ。村を出れば、あとは田圃の一筋道。火は遠からずと見へて、竹の間を漏る火光ちらちら、暴風にまじる人の叫びの聞ふるに、ますます足掻を早めて藪中を駆けぬくるより赫と面てる火光に驚く猛。
「やあッ、しまつた!」同時に其処此処より
「火事じやァ、火事じや。上田の御屋敷が焼けるぞ、御屋敷が焼けるぞ」と叫びさけび走り行く声暴風(あらし)の中に聞ふ。
「しまつた!」歯をくい切(しば)りつゝ、双鐙を合はせて驀地(まっしぐら)に駆け行く。已に八町が内となれば、道は宛(さ)ながら炬火(たいまつ)を照らせる様に、行手の方は闇に染めぬく紅の烈火一団、炎々として燃え上る状(さま)手にとる如し。
「しまつた!」三たび叫むで、今は流石に疲れし俊足の鬣(たてがみ)を左手(ゆんで)にかい掴み、右手には鞭、ふり上げて責め立て責め立てひた走りに走らす。一歩一歩に火は面にあぶつて、繽粉(ひんぷん)と飛び来る火の粉は急霰(きゅうさん)の如く面を撲ち、馬鬣(たてがみ)に落ちて、じりじりと燃ふるも覚へぬ猛。
「しまつた!」四たび叫むで、一町が内に来れる頃は、母屋も土蔵も納屋小屋一切の建物残りなく烈火に包まれぬ。母屋の棟はまだ落ちず、珊瑚の柱、黄金の瓦、燦々(きらきら)と紫だちたる焔の中に閃
(きら)めきて、吹く風に紅の花飛び、金の雨滴り、鎔々(ゆらゆら)と宛(さ)ながら今鎔炉の中なる金殿の奇(あや)しき美観。三棟の土蔵は今炎々と燃え盛りて、五色の火焔一塊(ひとつ)にもゆれ、凄まじき音たてゝのの字に渦巻き、しの字に狂ひ、余炎藪を炙つて千竿の竹たちながら爆発すれば、焔の中に包まれし老楠の葉は焦れ、幹はちりちり脂を流して、夥しき樟の臭を放ちつゝ火龍の如く燃えぬ。
「何を見とる、何故消さん、消さんか、消さんか」馬上ながらに、歯軋りし、手を戟(ほこ)にして燃ふる吾家を睨みたる猛が顔は猛火に向ひて赤鬼の如くなりつ。
「旦那、此風に! 到底(とても)寄りつかれたもんじやありません」
「素晴しい火勢じやねへか、最早(もう)御屋敷も駄目じやの」 口々に云ひ罵る。
「何、駄目? 不埒な奴め、消せ、消さんか、何を立つて見とる? 龍吐水は如何した?」
「旦那、駄目でがすよ、斯様(こう)なつちや龍吐水が千挺あつたつて、萬挺あつたつて、仕方がありませんや」
「消すも、消さんもあつたもんじやねへ、寄付いたら體が焦げるわ」
「旦那、一人で消しなさろ!」
「何、不埒な」
「おゝ、猛、猛、猛。焼けた、焼けた」遽しく呼びて駆け来る大男。
「馬鹿、學さん、何故火事をやり出来(でか)した?」
「吾は知らん、吾は知らん」
「知らんた何だ、道具は出したか」
「阿母は俺が負つて逃げた、今預けて来たんじや」
「道具は如何した? 大事な物は皆出たか」
「出すも何も出来るこつちやない」
「何、焼いた?」
「皆命からがら逃げ出したんじや」
「馬鹿奴」馬を飛び下り、鞭打ちふつて、烈火の家を眼がけ手十二三歩。忽ち烈風一陣横さまに払ふて、母屋の柱ゆらゆらと俯くと見れば、金頽(くず)れ朱傾きて、どうと倒れつ。煙交り灰交りの火柱の柱空をついて、またはらはらと降り来る火の雨。眉を焦せる猛はm々(そこそこ)に退きつ。
「やあ母屋が落ちた!」
「最早土蔵も落ちる!」
「あゝ最早駄目じや」
「上田の御屋敷も灰になるかな」
「罰だよ」と云ふ声も聞へぬ。歯を喰しばりて、猛は突立ちたり。土蔵は一つ落ち、二つ落ち、三つ落ちぬ。今は唯三百年の老楠の宛(さ)ながら大炬(おおたいまつ)の如く弗々と烈風に燃へて末路の闇を照らすのみ。群がる人をかき別け、押し別け
「旦那、旦那、猛の旦那」
「誰か---や、甚兵衛-----最早駄目じや」
「駄目でございます---駄目で---園部の---」
「何?」
「園部のお菊嬢が----」
「何?」
「茂旦那の御墓で首を縊つて----」
「お菊が!!」折から、四辺の村人立ち騒ぎて
「倒れる、倒れる、あぶねへぞ」一仕切り吹き募る風に、燃へに燃へたる大楠はこらえかねてめきめきと裂けつ、暫し空中にたゆたいしが、やがて夥しき地響うたしてどうと灰燼の上に倒れぬ。火の粉まじりの灰ぱつと空中に飛むで、雨の如く舞ひ落ちたり。
「灰だ、灰だ、御屋敷が灰になつた、灰に!」 

(下)の四 

  さしも広大なる上田の家も一夜灰燼となり、其金銀財宝書画骨董の類より古文書帳簿証文の類まで、すべて烏有に帰しぬ。父は家の焼けしを聞ける其日、驚きあまりて卒中に倒れつ。凶事相ついで、流石村の指目の後影後(うしろめた)きに、猛も村に住みかねて、中津に引出でしが、幾程もなく密かに剰せる田畑山林を売り払い、或夜単身東京に走りしまゝ、其後の消息は傳はらず。兄の學は狂気の母と獨り残されたるを、親類の某引取りて二人を扶持しぬ園部の家にては、あらためてお菊を茂が墓に合葬せしが、村の者は之を「比翼塚」と呼びて、少女子(おとめ)が手向くる四季の野花は墓前に絶へず。上田の屋敷跡は何故にか人忌みて、家を建つ者もなければ、八重葎(やえむぐら)ほしいままに生い茂りて、昼も虫の音滋く、燃へざしの老楠の株のみ今も其まゝ残れり。

〜完〜