「細川忠隆公と前田千世(ちよ)姫」

2004.4.1

 細川忠隆公と前田千世(ちよ)姫夫妻は関ヶ原前後の激動に巻き込まれ、結婚後3年にして「故あって離縁、忠隆公は廃嫡」 となり、その後の消息は細川家や前田家の正史等にも殆ど言及されていない。

  一方で、二人の親である細川忠興公、ガラシャ、前田利家公、まつ(芳春院)を巡る歴史大河ドラマや歴史小説などでこの二人のことが描かれたこともあったが、それらは細川内膳家に伝わる言い伝えと合致していない。 例えば言い伝えでは、千世姫はドラマに描かれたように1600年に離縁後すぐに加賀に戻ったわけではなく、離縁された後も廃嫡された忠隆公に付き添い子供とともに10年くらい京都で暮らして、さらに徳姫など4子女を生んだと伝えられてきた。 しかしながらこの真偽は明らかではない。

 そこで二人の離縁後の消息を明らかにするため、細川内膳家資料とともに前田千世姫に関する加賀藩側の資料なども参照 し、まだ不明の点も多いが一応の推論・結論を得たので、ここに現時点での資料として細川忠隆公と前田千世(ちよ)姫の記録 をまとめた。この記録の作製に関しては、肥後細川藩・拾遺ホームページ主催者津々堂氏、同ホームページ掲示板寄稿者の ぴえーる氏、たかゆき氏ら、および金沢市の前田土佐守家資料館からの情報提供に多くを負った。

  加賀藩関連の情報を御提供いただいたこれらの方々に対し、ここに深く感謝の意を表する。今後とも新しい資料があれば御教示いただき、さらに正確なものにしてゆければ幸いである。 (内膳家縁者 細川純)

「調査結果の概要」

 

細川忠隆公(ほそかわただたか 1580〜1646)は源姓、羽柴姓、長岡姓も有する。 

  細川忠興公、ガラシャ夫妻の嫡子であり、関ヶ原では岐阜攻めに参陣し、戦功を立てた。秀吉の斡旋により忠隆は1597年に前田利家の娘千世姫を正室としていたため、細川家は徳川家康から快く思われていなかった。

 そのこともあり、細川忠興は1600年7月ガラシャ自刃の折り千世が屋敷から脱出したことを理由に、忠隆千世を離縁するよう申し渡した(内膳家資料では「故あって離縁」となっている)。  

 忠隆は親に逆らい千世との離縁を承諾せず、前田家を訪ねて庇護を求めたが前田家でも徳川家康を憚りこれに応じなかった。結果、1600年末には忠隆は細川忠興から廃嫡されてしまい、千世と嫡男熊千代を伴って京都で逼塞した(内膳家資料や後述資料)。忠隆たち一家の生活は、京都に在住していた祖父細川幽斎が援助した。

 なお争点である、1605−1609年に京都で生まれた忠隆の4子女の母が千世であるかどうかについては今回の調査では判断できなかった。千世は1604年以降1613年までのどこかの時点で京都の忠隆と別れて加賀に戻った。村井長次との再嫁年とされる1605年(後述の村井家資料など)に戻った可能性が高いと推測するが、そうならば、徳 に始まる4子女の母は千世とは別人である。一方、1610年以降に戻ったとすれば4子女の母は千世である。

  なお、廃嫡された忠隆の子孫は細川家一門家臣「細川内膳家」となり、明治維新に至る。

前田千世姫(おちよ 春香院 1580〜1641) 前田利家公とまつ夫妻の7女(末子)。

 1597年に忠隆と結婚するも「故あって離縁」され、のちに芳春院とも親しい前田家重臣の村井長次に再稼した。 子供のうちで最もまつ(芳春院)にかわいがられ、離縁後のおちよあての芳春院自筆状もいくつか現存する(前田土佐守家資料芳春院自筆状など:後述参照)。1600年の忠隆との離縁後、千世はすぐに実家の加賀へ戻ったとする説があるが、内膳家の資料などを見る限りそれは誤りである。

 忠隆千世を離縁させようとする徳川家康と父に逆らい廃嫡されてしまったが、千世は廃嫡された忠隆に付き添って、実子の熊千代とともに少なくとも1604年までは京都で家族として暮らしていたのである。

 この時代、大名の子女である千世が離縁されてのちも一緒に暮らすなどは大変なことであったろう。熊千代を亡くしたのちに千世は加賀に戻り、村井長次に再稼した。千世の再稼は1605年とされる(『前田氏戦記集』収録の「村井家伝」など:後述参照)が、この再嫁の期日は加賀藩正史などには記載されておらず実際はもっと後であった可能性もある。そこで、1605−1610に千世が実際に村井家に住んでいたかどうかについて調べたが、確実な証拠は得られなかった(後述の芳春院自筆状あとがきなど参照)。その期間に加賀に在住していれば忠隆の4子女の母は千世ではないことになるが、これについてはさらに調査を続けたい。なお、千世には1613年に死去した村井長次との間に実子はなかったものの、村井家で養子とともに穏やかな後半生を過ごした。 

「細川忠隆公と前田千世姫に関する関連年表」

1580年: 細川忠興とガラシャの嫡子忠隆が誕生。 前田利家とまつの7女千世(ちよ)が誕生。

1597. 1: 豊臣秀吉の斡旋で、細川忠隆と前田千世が結婚する。ともに17才。

1598年: 豊臣秀吉死去。

1600. 1: 徳川家康、細川忠興に対し第3子忠利を質に出させ、見返りに豊後杵築6万石を与える。

1600. 7: 関ヶ原の戦いを前にガラシャは石田三成方の人質になることを拒み細川大阪邸内で自刃。そのとき千世(当時20才)は、細川大阪邸から、姉の豪が嫁していた隣の宇喜多邸に脱出。 

1600.8-12: 脱出が義父忠興の怒りに触れて、千世を細川家から離縁するよう忠隆に言い渡す。   

注)忠隆は8月岐阜攻めに参陣。   
注)この頃に、千世に熊千代が生まれたと推定される。   
注)千世、前田家に帰るとの説がある(歴史大河ドラマなど)が、それは誤り。   
注)忠隆は加賀に行き、前田家の庇護を求めるが叶わず(内膳家資料)。

1600. 12: 忠隆は父忠興から廃嫡される「綿考輯録など」。    

注)しかしその後も千世忠隆とともに京都に住む。忠隆は剃髪し休無と号し、妻子を伴って京都に蟄居した(内膳家資料や、新・熊本の歴史:後述)。
注)ちなみに、京都には祖父幽斎の隠居所領があった。 幽斎死去後食邑が扶持される1610年までは、忠隆は幽斎から種々の援助を受けていたものと推測される。

1602年: 細川忠興、丹後田辺城主から豊前豊後中津城主へ。小倉城を築城(完成は5年後)開始。

1604年: 細川家では、第3子忠利が忠興の嗣子に決定。

1604年: 忠隆と千世の嫡子熊千代死去。 生年は不明。 即漚。 号は空性院。 墓地は西園寺。

注)熊千代とは細川家では正室との嫡子につける幼名。父である忠隆の幼名も熊千代(内膳家資料)である。   
注)熊千代死去後のどこかの時点で千世は加賀に帰った。

1605年: 千世(当時25才)は、加賀家重臣の村井長次(当時37才)に再稼したとの記録がある。

注) 『前田氏戦記集』収録「村井家伝」など:後述参照        
1605年に再嫁したとの上記の記録は千世死後27年あとに関係者が藩へ提出した間接資料であり、この年に婚儀を行ったとするものではない。よって、この年に千世が金沢に移住したことの明確な根拠ではない。

1605年: 忠隆に徳女誕生。 徳は長じて西園寺実晴(のちに左大臣)に嫁し、公満と公義(別名は公宣または随宣)の2子を生む。

注)なぜか系図に徳の母親名は不記載。千世とは別の母であればその母の墓があるはずだが、京都の忠隆の墓所である大徳寺高桐院にはない。
注)朝廷は、徳川家光に太政大臣・正一位の追贈と大猷院の謚号を決め、1651年に内大臣西園寺実晴を勅使として日光に派遣した。   
注)公義(随宣)の神社: 文化財指定年月日:S.54.2.23 所在地:熊本県菊陽古閑原。古閑原西端から北に農道を登った芳ケ平に、 西園寺随宜を祀る神社がある。この墓の主西園寺随宜は、時の左大臣西園寺実晴の末子として京都に生まれた(母は徳)。 40才頃に京都から、叔父にあたる長岡忠春の領分である入道水村の安福寺を仮の住居として1665年に移り住んだが1670年に一生を終えた。

http://www.kikuyo.co.jp/html/shoukai/B.html#sai_haka

1608年: 忠隆に吉女誕生。系図に母親名は不記載。 長じてのちに、吉は奥山三郎兵衛秀宗に嫁す。

注)前田土佐守家資料館のおちよあて芳春院自筆状あとがきから見て、1608年までには千世は加賀に戻っていた可能性もある:後述参照。

1609年: 忠隆に福女が誕生。系図に母親名は不記載。 長じてのちに、福は久世通武に嫁す。 その後も萬女誕生するも、早世(内膳家資料による)。

注)このころ忠隆に対して、西園寺家、幽斎、幽斎第2子興元は関係良好であり、行き来がある(内膳資料)。
注)この徳から萬にいたる4女はたてつづけに生まれており、母親は同一人と思われる。

1610年: 細川藤孝(幽斎)死去。幽斎の隠居料だった6千石のうち、3千石が忠隆の隠居料として認められる。

1612年: 巌流島決闘。小倉城主は忠興。

1613年: 千世が再稼した村井長次(1568〜1613)が死去。長次と千世との間の実子は居ない。

注)村井長次(永禄11年〜慶長18年11月7日):系譜による長次の子は、 長光(実は織田長孝二男)、

女子(実は前田利政女)、 女子(実は脇田兵部女)、 女子(実は村井理斉(長頼弟)女。
ぴえーる氏の細川藩・拾遺HP掲示板投稿資料から。 http://www2.odn.ne.jp/~cft38200/nenpu3.htm

1615年: 大阪落城し、豊臣秀頼ら死去。豊臣方に参陣していた忠興第2子の細川興秋は切腹。

1616年: 徳川家康没。

1617年: 前田家の芳春院(まつ)没。

1621年: 第3子の細川忠利が正式に細川藩の家督を継ぐ。

1621年: 忠隆と長谷川喜久(当時21才)の長子、忠恒(忠改、忠常とも言う)誕生。 忠恒は嗣子なし。

1622年: 忠隆と喜久の次子、忠春誕生。 忠春はのちに、細川内膳家(6千石)を継承。

注)細川内膳家は忠隆と喜久の子孫であり、千世の血は入っていない。なお、内膳家では養子をたてず、母ガラシャの血は歴代父系で現在まで伝わっている(内膳家資料)。 1632年: 細川家は加藤家の改易後、豊前小倉から肥後熊本へ移る。忠利が熊本城主。父の忠興は居所として八代城主へ。 忠興は忠隆と和解し(内膳家資料による)、熊本に住むよう説得するが、忠隆は熊本には住まなかった。

1641年: 春香院となっていた千世が加賀で死去。 法号は春香院、墓地は野田山。

1641年: 細川藩主の忠利死去。

1645. 12: 細川忠興死去。 1646. 8: 細川内膳祖忠隆、京都で死去。泰仰院瑞厳宗祥。終生京都で暮らした。子は正室千世に1男子(早世)、母名不記載の4女子(うち1名は早世)。喜久との間に2男子。隠居料のうち1000石は娘にと遺言。(内膳家資料)。

以降: 長谷川喜久は忠隆死後、熊本へ行き、子(忠春もしくは忠恒)とともに住む。

忠隆の子孫は、細川藩家臣7千石、細川一門内膳家として明治に至り、男爵。

忠隆と喜久に始まる内膳家歴代墓所は、熊本市島崎3丁目。 

忠隆の遺骸のある墓は京都の大徳寺高桐院(京都市北区紫野大徳寺町)。

系図(左側が年長の子)

                                           細川藤孝(幽斎)

   

中津・小倉城主

         

忠興(三斎):細川藩祖   興元      孝隆          蓮丸        孝之

(室は明智家女の玉、ガラシャ)  常陸谷田部藩祖  

   
   

     肥後

熊本藩主

       

 忠隆内膳祖    興秋    忠利細川本家   千丸   立孝宇土藩祖  興孝(刑部祖)   寄之

(正室は千世)  切腹(豊臣方)  

   

千世

の長子     1605

―1610生(母名不記載)   喜久の長子

1621生        喜久

次子1622生

某:幼名熊千代   徳、吉、福、萬の4子女      忠恒(忠政)     忠春(室は小笠原氏女)

(1604卒 墓は西園寺) (徳はのちに西園寺家に嫁す)         嗣子なし   


      

                                                              忠季(室は長岡氏女)

「全体に関しての注記、関連資料」

注)忠隆についての他の資料: 

細川忠興の嫡男。 興秋・忠利の兄でこの3人は皆ガラシャの息子である。通称与一郎。 正室は千世(千代ともいう。前田利家の7女。1600年に故あって離縁)。 1598年従四位下侍従に叙位任官し、羽柴姓を許された。 1599年烏丸光広が丹後に細川藤孝を訪問し、天橋立を見物した際に連歌を歌ったが、忠隆もこれに加わっている(丹後知恩寺所蔵「和歌短冊」)。 関ヶ原では岐阜攻めに参陣。しかし大坂邸から逃れた妻の離縁を父から命ぜられて拒否し、勘当廃嫡された。 結果として、妻を離縁し、剃髪して休無と号し、京都に逼塞した。のち徳川家光より食邑を受けた。京都において死去。
http://f2.aaacafe.ne.jp/~kshine/1ashikaga%20shogun%20clan.htm

注)肥後細川藩・拾遺HP掲示板管理主催者の津々堂からの連絡(2004.2.21)

 「新・熊本の歴史」に、忠隆と千世に関する興味ある文章があります。第4巻「近世・上」にある花岡興輝氏の「大名のくらし」という項 ですが、「(前文略)忠隆はこのころ廃嫡されて京都に隠棲していました。それは忠隆の奥方が、加賀の前田利家の娘にあたるととい うことで、徳川家康は忠興に対して再三にわたって離婚させよと命じていますが、忠隆はその命を拒否していた関係で徳川の忌諱に 触れ、忠興はそれをおもんばかって忠隆を廃嫡にしました。そこで彼は剃髪して休無と称し妻子を伴い京都に蟄居しました(後略)」この本は昭和54年「熊本日々新聞社」が発行したもので、著者の花岡興輝氏は当時熊本県立美術館の美術専門員という肩書きでし た。熊本近世史の研究家として有名な方です。何らかの根拠をお持ちで執筆されたと考えられます。

注)細川・拾遺HP掲示板投稿:ぴえーる  投稿日: 2月12日(木) 

 村井長次と千世の再婚時期について『加賀藩史料』を調べてみましたが、全く触れていませんでした。

注)村井長次宛の芳春院自筆状(前田土佐守家資料館蔵)。 

「この書状は、関ヶ原の戦いの後、領国能登の封をとかれていた利政について、大御所すなわち徳川家康から前田領国の国端においてもよいと する仰せがあり、そのうれしさを千世の婿村井長次(加賀八家村井家初代当主村井長頼の子)に伝えている内容である。年月日不詳。」

   http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/bunho/maedatosa/gaiyo/kura6.htm

「前田土佐守家資料館金沢市片町2-10-17 「maedatosa@city.kanazawa.ishikawa.jp」からのご返事。

「この手紙を出した時期は1600−1613の間で、手紙には村井家との婚姻関係を示す内容はない。 一般的には1605に婚姻したとされているものは日置謙の『加能郷土辞彙』(北国新聞社,1973)などがあるが、加賀藩の正式記録には千世姫婚姻の記述はあっても時期を特定できるものはない」 とのお答えであった。(2004.2.28)

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 先日ご質問のありました当館所蔵「芳春院自筆書状」についてご回答致します。

 芳春院は前田利家の正室で名を「まつ」といい、前田土佐守家の初代前田利政の生母です。その縁で前田土佐守家には計5通の芳春院自筆書状が伝来しております。

 お問い合わせのあった芳春院自筆書状(家政314)は、ホームページの解説にもあるとおり、年月日の記載が 無いため正確な時期が判断できません。当館では、この書状は前田利政が領国能登の封を解かれた後に書かれたものであると判断していますが、それでも関ヶ原合戦後から村井長次死去までの間、つまり慶長5年から18年(1600-1613)の間に書かれた、というおおまかな年代特定しかできないのが実情です。したがって、この書状が記された時点で村井長次と千世との間に婚姻関係が成立していたかどうかは不明ということになります。

 当館ホームページの「芳春院自筆書状」解説キャプションは、あくまで村井長次という人物は「娘千世の婿」であった、という事実の説明を意図して記載したものであり、この書状が書かれた当時において村井長次が「娘千代の婿」であった、という意味での記述ではありませんが、誤解を招く恐れのある記述ですので早急に訂正したいと思っております。

 芳春院の七女千世が村井長次に再嫁した時期につきましては、慶長10年(1605)としている資料は散見できるのですが(日置謙『加能郷土辞彙』(北国新聞社,1973)など)、加賀藩の公的な記録などでは千世の再嫁の記述はあってもその時期について記したものは無いようです。同様に千世の子供の名前なども伝わっていないようです。

 なお、当館が所蔵する5通の芳春院自筆書状のうち3通は「おちよ(=千世)」宛となっていますが、残念ながらそのいずれも書かれた年は不明です。また、村井長次の父長頼を祖とする村井家には戦前まで数百通もの芳春院書状が伝わっていたといわれていますが、戦災で全て消失したとされています。

 千世は芳春院に特別にかわいがられていたらしく、頻繁に手紙のやりとりを行っていたようで、その縁で村井家に多くの芳春院自筆書状が伝来したようです。現存する芳春院自筆書状も多くが千世宛のものです。

           ―――――――――――――芳春院自筆状―――――――――――――

御心やすく候へく候、よそへハさた申さす候、まつきかせ申候、まんそく申まゐらせ候、かしく一ふて申まゐらせ候、このさけおたわら(註:小田原)よりまゐらせ候まゝまゐらせ候、御しやうくわん候へ く候又申候、まこ四郎(註:孫四郎=前田利政)事、大御所様よりくにはしにもおきまゐらせ候へとおほせい たされ候てさと殿(註:佐渡殿=本多正信)よりひセん(註:肥前=前田利長)へ文まいり申候、きのふ御返 事被入候、何やうにもぎよひしたいとの御事ニて候、かしく、

いつも殿(註:出雲殿=村井長次) 参る  はう(註:芳春院)  申給へ

            

【抄訳】

 孫四郎のことについて、大御所様が「国許の端にでも置くように」とおっしゃった旨を、本多佐渡守殿が肥前へ手紙で知らせてきた。肥前は、「何事も大御所様の御意次第である」との返事を昨日出した。

とても安心した。内々のことであるのでよそには知らせないように

注)金沢市立玉川図書館近世史料館よりの返事

 今回のご質問の件は当館所蔵史料ではわからないかもしれません。石川県立図書館からご連絡があった『村井文書』(加越能文庫資料番号特16.34−72)5冊には前田利長・利常・芳春院から千世宛、芳春院から村井長次宛の書状を複数収録(約500ページ)しています。これ以上の問い合せは手紙か電話などにてお願い申しあげます。

   〒920−0863 金沢市玉川町2−20 金沢市立玉川図書館近世史料館    電話076(221)4750 

注)千世再婚の記録を見つけました 細川藩・拾遺HP掲示板投稿者:ぴえーる  投稿日: 2月29日(日)22時14分23秒

『前田氏戦記集』収録「村井家伝」より

一、慶長十年に利家様御息女ちよ様、後は春香院殿、利長様より出雲に嫁娶被仰付候。

これは寛文八(1668)年十二月二十六日に、村井藤十郎が奥村因幡に提出した記録のようです。

※村井藤十郎(親長)  村井家五代。正徳元(1711)年四月四日没。享年五十九。

※奥村因幡(庸礼)  奥村支家二代。貞享四(1687)年六月八日没。享年六十一。

注)芳春院自筆状あとがき 細川藩・拾遺HP掲示板投稿者:たかゆき  投稿日: 3月 2日(火)00時21分47秒

千世の消息ですが、前田土佐守資料館蔵のまつからおちよあての手紙に年度不詳の十月六日付けのものがあり、内容は大御所(家康)による孫四郎(利政)の放免が撤回されたこと、自身の近況、最後に追伸として富山の”もく”(高畠木工)に肥前(利長)宛て手紙を送ったが”もく”は叱られると躊躇しているので利長に渡るよう助力を頼んでいる。

 この最後の追伸の部分で利長が富山城に居たときの手紙と特定でき、その期間は隠居後の慶長十年六月から富山の火災で関野(高岡)に移る慶長十四年三月まで手紙の日付が十月六日であることから遅くとも慶長十三年(1608年)には千世が金沢に居たことが証明できると思います。以下は手紙の追伸部分です。

 又申候、一日給候ひきやくに、と山のもくかたまで、ひせん(肥前)へようの事候て、あけ申候文、事つて申候か、もくハしかられ申候よしにて候、御たつね候て、その文ひせんへとヽけて給候へ候、とおき所ハあとさきとなりまいらせ候、たのミ申候、かしく、

注)前田土佐守家資料館からのご返事 その2  2004.3.23

 先日ご質問のありました当館所蔵「芳春院自筆書状」についてご回答致します。

 先日のご質問の中にありました史料は、当館所蔵「芳春院自筆書状」(家政311)です。いただいたメールの中にもありましたとおり、芳春院が次男前田利政の処遇を含めた家康の言動への非難および自身の体調を記したもので、宛名は「おちよ」すなわち千世となっております。

 この手紙には月日の記載(十月六日付)はあるものの書かれた年代が記載されておりませんが、メールでご指摘のとおり、肥前=利長が富山に居住していた期間、すなわち慶長十年から同十三年までの期間に書かれたものと推測されます。

 この期間内に芳春院から千世宛に出された手紙であることは間違いないと思われますが、内容的には「富山の"もく"をたずねて」「利長へ手紙をとどけるよう取り図らって欲しい」旨が記載されているのみで、千世の居住地が金沢であるという直接的な記載が見られないため、この手紙の内容のみで「千世が金沢に居住していた」と確定するには疑問が残ります

 「たづね」が「訪ね」なのであれば、富山により近い金沢に居住していた可能性も考えられますが、「尋ね」=問い合わせるの意味で使用している可能性もあり、そうであるならば他の場所(例えば京都)に居住していたとしても何ら問題はないと考えられます(使い等を出して"もく"へ問い合わせれば良く、必ずしも金沢に居住している必要はない)。

 いずれにしろ、当館としては、この史料のみで当時の千世の居住地を特定することはできないと考えております。ただし、他所の史料と併せ検証することによって特定が可能となることは充分考えられます。石川県立図書館や金沢市立玉川図書館近世史料館などが金沢の近世史料を多数保管していますので、そちらの史料を参照してみてはいかがでしょうか。

 なお、「と山の“もく”」=高畠木工=高畠定量とされておりますが、当館ではそのことを確認できませんでしたので、ここでは単に"もく"と記述しております。

 また、参考までに、加賀藩史料の千世関連記事掲載部分を抜粋します。

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     十一月二十日。前田利常の姉千世姫没す。

〔前田家家譜〕

千代姫又は長姫。初め肥後侯細川忠興の男忠隆に嫁し、後藩臣村井長次の室となる。天正八年五月七日生る。母は芳春院。寛永十八年十一月二十日没す。享年六十二。法号は春香院。野田山に葬る。

〔壬子集録〕春香院覚書

     一、しゆんかういん様は御ちよ様と申候。六十二にて十一月廿日御しきやうにて御座候。

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      ※『加賀藩史料』第三編 寛永十八年の項より抜粋

  芳春院書状(家政311)

 よくそ々々たひ々々人を給候、御うれしく候、まこ四郎(註:孫四郎=前田利政)事、はしめハする々々としたる御返事申され候て、いま何かとの御事候、セひもなく候、そはにて人かいかほど々々セいをいれ候てもならぬ事候、かうきハすみ申候、こんとも人の御物語候か、大御所さま(註:徳川家康)の御くちハ大かたよく候よし申候へ共、しにてのちの事まて申され候、大かうさま(註:太閤様=豊臣秀吉)日本のしゆニせいしをさせ、いかほとの事仰おき候へ共、ミな々々むニなり申候に、おかしき事ともにて候、これと申も我か身かいんくわのほとを、なを々々かんし申候、くわいふんかめいわくに思ひまゐらせ候、ふつしんにもやう々々はなされたるわか身と思ひまゐらせ候、九月よりのとけさし出申、むねもいたくてけんかんのくすりのミ申候事候、すき々々とよく候へつるか、又さし出申候、さりなから物ハよくくい申候、御心やすく候へく候、めてたくかしく、

 又申候、一日給候ひきやくにと山のもく(註:富山の"もく")かたまて、ひせん(註:肥前=前田利長)へやうの事候てあけ申候文、事つて申候か、もくハしかられ申候よしにて御たつね候て、その文ひせんへとゝけて給候へく、とおき所ハあとさきとなりまいらせ候、たのミ申候、かしく、

十月六日  より

おちよ御返事 参 ちま はう

申給へ

追伸部分の訳

肥前への用事を記した手紙を、(10月)1日の飛脚で富山の「もく」あてにことづけたが、「もく」は叱られている(→不興を被っている、罰を受けている等)ところなので手紙を届けることができないらしい。ついては(千世のほうから)問い合わせてその手紙を肥前まで届けるよう取り図って欲しい。遠方からの頼み事なので(それぞれの手紙が)後先になるかもしれないが、よろしく頼む

                                                 ――以上――