−細川内膳家 肥後史料− 廃嫡後の細川忠隆(長岡休無)

平成17年作成。平成20年7月改訂。

 細川忠興と明智玉(ガラシャ)の間の嫡男として天正八年四月二十七日に山 城国青龍寺城で誕生した熊千代(細川忠隆)は、前田利家娘千世を妻とし、関ヶ原の戦いなどで活躍した。しかし慶長五年に突然父忠興と不和になり、細川家世継ぎの地位を捨てて長岡休無と名を変えて、京都で蟄居隠棲してしまう。

 細川幽斎と明智光秀を祖父にもつ忠隆の細川家廃嫡の真相と、廃嫡後の忠隆一 家、子孫の肥後細川内膳家などについて、種々の資料をもとに検証を行った。

※この史料については熊本県立図書館に納めるとともに、内容の概要についてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「細川忠隆」に記載した。→Wikipedia「細川忠隆

細川内膳家史料

 平成17年8月7日作成。平成20年7月22日改訂

「廃嫡後の細川忠隆」

 細川忠興とガラシャの嫡男である忠隆(1580-1646)は、1600年の岐阜攻めや関ヶ原合戦に父忠興に従いあるいは細川家の将を率いて戦功をあげ、内府(徳川秀忠)からも感謝状を得た。関ヶ原合戦前後における忠隆の松井興長宛自筆状5通が松井文庫に残っているが、それらでは忠隆は自他ともに嗣子と認められている様子がうかがえる(八代市立博物館史料)。

 しかし戦後になって、ガラシャ自刃の際に妻前田千世が大阪細川屋敷から逃 れたことを咎められ、忠興から千世離縁を命じられた。忠隆は千世との離縁を納得せず、千世をかばって前田家を訪ねて助力を求めたりしたが、忠興の怒りを買い勘当される(1600年12月、父子不和となる/綿考輯録や内膳御家譜)。さらに1604年には廃嫡され、忠隆は千世と嫡子熊千代を伴い京都で蟄居(号は長岡休無)した。 千世は前田利家・芳春院の愛娘であり、前田・細川の姻戚関係が徳川家康から疎まれていたことが廃嫡の主因と、現在は解釈されている。

 廃嫡後の忠隆の生活は、独自の隠居所領六千石を持ち京都に在住していた祖父細川幽斎が支えた。内膳家史料では、1605-1609年に京都で生まれた徳(西園寺左大臣室)、吉、福(京都久世家室)、万の4子女の母は千世であるとしている。即ち千世は細川家からは離縁されたが、忠隆とは離縁していなかった。千世はのちに京都を離れて加賀に帰り前田八家のひとつ村井家に再嫁したが、その時期は1605年ではなく幽斎が死去した1610年以後の可能性が高い。

 隠居料扶持米3千石を相続した休無は1620年には長谷川喜久(当時20才)を迎え、程なく二人の男子を得(内膳御家譜地)、この子が後に熊本に下向して一門家臣細川内膳家(長岡内膳)となる。

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 以下に内膳御家譜などに基づく調査結果を示すが、作成にあたり、肥後細川藩拾遺ホームページの関係者の方々、永青文庫川口恭子氏、金沢の前田土佐守家資料館、熊本県立図書館、松井文庫と八代市立博物館の林千寿氏ほかの方々に種々の貴重な史料や御教示を頂いた。ここに深く感謝するものである。 なお、資料中の年号は西暦で表示したが、月日は旧暦記載のままとした。  内膳縁者 細川純

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1580年:細川忠興と明智玉(後のガラシャ)に、嫡子忠隆(幼名熊千代、与一郎)が山城国青龍寺にて誕生。同年に、前田利家とまつに七女の千世(おちよ、千代、長ともいう)が誕生。 1582年:本能寺の変。細川藤孝は隠居して幽斎と号す。

 忠興は玉を丹後深山の味土野にかくまい、時折り訪れていた。

  • 1584年:秀吉の許しで玉の味土野幽閉解かれる。この年に玉に次子興秋誕生。
  • 1586年:玉に三男の忠利誕生。
  • 1587年:玉洗礼を受け、洗礼名ガラシャ。この年秀吉のバテレン追放令。
  • 1597.1:豊臣秀吉の斡旋で、細川忠隆と前田千世が婚姻する。
  • 1598年:豊臣秀吉逝去。1600.1:徳川家康、細川忠興に対し忠利を証人に出させて、豊後杵築6万石を与える。
  • 1600.7:関ヶ原の戦いを前に、忠興室ガラシャ(法名秀林院)は石田三成方の 人質になることを拒み、大阪玉造の細川邸内で自刃。そのとき千世は 細川邸から姉の豪が嫁していた隣の宇喜多邸に脱出。

 ★★その1「小須賀覚書より」

 長岡越中守殿、子息與一郎殿 同舎弟内記殿両三人は家康公御同陣にて景勝陣に立被申候。越中守忠興御内儀は明智日向守光秀御息女にて候。大阪玉造口に屋形候て其れに御入候。越中守殿奥方の法度世上に無之堅き仕置にて、地震の間と申候て八畳敷に座敷を拵へ、四方の壁に鉄砲の薬を紙袋に入懸並べ置候て何時も大地震あり候はゝ″御内儀右の座敷へ御入候て焼御果候筈に不断之仕置にて候由。就其屋敷の表は小笠原正齋預り、裏の門は稲富預り、奥方は光秀公より御前に附参候川北石見請取、右の三人は長岡越中守殿大阪屋敷の留守居にて候。越中守殿と石田冶部少輔三成、前方より中悪敷猶以て此度は敵味方にて候故、右三人の留守居拵へ候は自然越中守殿御前を人質に取に参候はんこと気遣仕居候處、稲富は其頃鉄砲之天下一にて知行千石取、生国は丹後の國の者にて、冶部少輔殿内衆に鉄砲の弟子多持居候に付、越中守殿御前を人質に取申由沙汰御座候と、稲富方へ内證申来候間、小笠原正齋、川北石見被相心得候へと稲富申候に付屋敷の門外を見せ候へば人多居申候由候間、扨は必定と存候て、川北石見御前へ参り候て、右の旨申入候。幽齋の妹若狭國竹田殿内儀後家にて年七十に餘り、越中守殿伯母御を常に御内儀に被付置候處に御前申候は、我等は人質取候はんと申来候はゝ″、いかにも賎しきなりを致置可申左候へば、宮川殿は都の建仁寺に御子息雄長老御座候間是非御退頼申候と色々被仰候に付、宮川殿建仁寺へ退被申候。越中守殿子息與一郎殿は前田肥前守殿妹婿、此嫁御の儀は若き上臈を召連候て退き申事中々成申間敷候間、幸屋敷隣備前浮田中納言殿内儀は、嫁御の姉御にて候間、築地一重の事に候間、橋を架け候て隣へ是非々々御退候へと姑御御申候故、嫁御も備前中納言殿御前へ御退候。越中守殿御前嫁御も宮川殿も出し抜き御退け候。其内に稲富裏の門を明逆心致候而、立退申候。御前地震の間へ御入候て川北石見守御呼被成被仰候は局しも事は我等供可致候と色々様々申候へども、不残何も御果候はゝ″越中守殿、與一郎、内記帰陣致しても、此一巻語り傳へ可申者無之候間、しも儀ははしたの様に出立候て、我等自害致し候段々見届候て、火を掛け候と、一度に小さき包に物を入戴き局を退候て何方にも隠れ居候て、越中守殿、與一郎、内記帰陣被申候を待居候て、逢申具に物語致候へば、草の陰にても満足可申、其上にて越中守殿、與一郎、内記可為満足と御申候て、夜半時分に川北石見守長刀を持御前へ懸御目、石見申候は、御祝言之時懸御目只今御目に懸り納めにて御座候、追付御供可申と申候て、長刀にて介錯仕り、地震の間に火を掛け、面々廣間へ出候て、小笠原正齋、川北石見両人致切腹候て、長岡越中守殿屋敷焼拂申候て、局おしも退済まし候て京都に忍び居候て越中守殿、與一郎殿御帰陣の時右の段々委細物語申候。内記殿は人質として江戸に御置被成候。

 ★★その2「秀林院様御はて被成候次第事(志も女覚書より)」

 石田治部少乱のとし七月十二日に小笠原少斎、河喜多石見両人御台所まで参られ候て、わたくしをよび出し、申され候ハ、治部少方より、いずれも東へ御たちなされ候 大名衆の人しちをとり申候よし風聞つかまつり候がいかが仕候はんや、と申され候ゆへ、すなわち、秀林院様へそのとをり申上候、秀林院様御意なされ候ハ、治部少と三斎さまとハかねかね御あいだ悪しく候まゝ、さためて人しちとり申はじめハ、此方へ申まいるへく候、はしめにてなく候ハハ、よそのなミもあるへきが、一はん二申きたり候ハハ御返答いかがあそバされよく候ハんや、少斎・石見分別いたし候やうにと御意なされ候ゆへ、すなわち其とをりをわたくしうけ給両人二申渡し候事少斎・石見申され候ハ、かの方より右の様子申しきたり候ハバ、人しちに出し候ハんひと御座なく候、与一郎様ハひがしへ御立なされ候、内記さまハ江戸二人質に御座候、たゝ今ここもとにて人しちに出し候ハん人一人も御座なく候間、出し申事なるまじきと可申候、せひ共に人しちとり候ハんと申候ハバ丹後へ申遺し幽斎様御上りなされ御出候物か、其外何とそ御さしつ可有候まゝ、それまて待候へ、と返しいたすへきよし申上られ候へハ、一段しかるへきよし御意に候事ちやうこんと申比丘尼、日比御上様へ御出入仕人御座候を、彼方より此人をたのミ、内証にて右之様子申こしょ、人しち二御出候様二と度々長ごん申候へ共、三斎様御ため候まゝ、人しちに出申候事ハ、いかようの事候共、中々御どうしんなきよし仰候、又其後まいり申されしハ、左様に候ハ宇喜田の八郎殿ハ与一郎様をく方にてつき候て御一門中二而御座候間、八郎殿まて御出候へハ、其分にてハ御人しちに御出候とハ世間にハ申ましく候まゝ、左様に被遊候へと申参候事御上様御意なされ候ハ、宇喜田の八郎殿ハ尤御一門中二而候へ共、これも治部少と一味のやうに被聞召候間、それまて御出候ても同前に候間、これも中々御同心これなくて、右内証に而ての分に而ハらち明申不申候事同十六日彼方よりおもてむきの使参候而、せひせひ御上様を人しちに御出し候へ、左なく候ハおしかけ候て取候ハんよし、申しこし候二つき、少斎・石見申されしハ、あまり申度まゝの使にて候、此上ハ我々共是にて切腹仕候共出し申ましき由申遺候、それよりは御屋敷中の者共覚悟致罷在候事御上様御意にハ、まことおし入候時ハ、御じがい可被遊候まゝ、其時ハ少斎をくへ参而、御かいしやくいたし候様二と被仰候、与一郎様御上様をも人しち二御出し有ましく候まゝ、是ももろ共二御じがいなされ候へきよし、内々御約束御座候事少斎・石見・稲富談合ありて、稲富二ハおもてにててきをふせき候へ、そのひまに御上様こさいこ候様二可仕由談合御座候故、則其日の初夜の比てき御門前までよせ申候、稲富ハ其とき心かわりを仕、かたきと一所二なり申候、其やうすを少斎きき、もはやなるましくと思ひ長刀をもち御上様御座所へ参り、只今がこさいこにて候よし申され候、内々仰合候事にて御座候故、与一郎様おくさまを呼び、一所にて御はて候ハんと、御へやへ人を被遣わ候へ共、もはや何方御のき候哉らん無御座候故、御力なく御はてなされ候、長刀にて御かいしゃくいたし候事わたくし共御門へ出候時ハもはや御やかたに火かゝり申候、御門の外二ハ人大勢みへ申候、後に承候へハ、敵二てハこれなきよし二候、敵参り候も一定にて候へ共、稲富を引つれ御さいこ以前二引たるよし、是も後二承候、則御屋形二テはらをきり候人ハ、少斎・石見、いわミ甥六右衛門、同子一人、此分をハ覚え申候、其他も二三人はてられ候よし二候へ共、是ハしかと覚不申候、こまごましき事ハ書つけられす候間あらあらハ大かたハ如此候。−以上−

志も 印  正保五年二月十九日

1600年:忠隆(このときの官位は従四位下侍従であり大名格)は軍勢を率いて、岐阜攻め、関ヶ原などに参陣して武功をたてる。

 ★★ 「関原軍記大成11巻  丹後国田辺城攻」

 大老奉行の面々、大坂において評議せられけるは、丹後侍従忠興は近年内府に因深く御幼君に対して疎略なれば、たとえ今度の企を聞くとも定めて内府の味方すべし。急ぎ丹後へ軍勢を差向け老父幽斎を攻むるにおいては、越中守・玄蕃頭、父が救難を救わんためにその志を翻し、日頃の罪を陳謝してこの方へ馳来たるべし。もししからずば、他人見懲のために彼が城を攻落し、父幽斎に腹切らせて丹後一国を治むべし。しかれば、丹州福知山の城主小野木縫殿助公郷を陣将として、前田主膳正・生駒左近大夫・小出大和守・石川紀伊守・前野但馬守・谷出羽守・川勝左兵衛尉・織田上野介・山名主殿頭・藤掛三河守・長谷川鍋・高田河内守・毛利伊勢守・毛利民部大夫・杉原伯耆守・別所豊後守・斎村左兵衛佐・山崎左馬允・玄以法印等、丹後・但馬・播磨・筑紫の軍勢およそ一万七千余人、丹後へ発向せらるべしと下知せらる。忠興の嫡子与一郎忠隆は、父の跡より関東へ下向すべしとて大坂より丹後へ下り、出陣の用意ありけるが、上方の騒動仄かに聞えしかば祖父幽斎を心許なく思い、しばらく出馬なかりし処に、幽斎、与一郎を呼びて申されけるは、上方物騒なるによって我等を覚束なく思うは然る事なれども、先日御催促を蒙りながら出陣の時節遅滞せば関東の御沙汰悪しかるべし。その上、上方の騒動思懸なき事にはあらず。敵、もし自国へ働くにおいては兵略を尽して防ぎ戦い、越度なき様に下知すべし。早々関東へ馳下り、越中守・玄蕃頭に我等が存念案進〔安心〕申聞せよとあるによりて、忠隆は七月上旬に丹州を立ちて若狭路にかかり、大飯郡を経て大谷口という所に至る。小浜の城主木下若狭守勝俊の家老三輪五右衛門・松田又右衛門等相談しけるは、太守伏見に御在番なれども、内府方とはいい難し。しかるに羽柴与一殿、関東へ発向せらるるを、何心なく御城下を通さば後難の程も如何あらん。さればとて主人の下知もなきに路を塞がんも粗忽なれば、所詮、与一殿へ御城下を通り給わぬ様に理を申さんとて大谷口へ使者を出し件の意趣を述べければ、忠隆この旨を許容せられ、かの使者を案内者として矢田部坂を打越え名田庄川を渡り、小崎の方へ馬を進めらる。

 ここに沢村才八《後、大学と号す》吉重という者あり。彼は初め、若州高浜の城主逸見駿河守に仕えて、今忠興の家にあり。この時、軍勢の後殿して、大谷口へ来りけるが、足軽の者残り居て、与一郎殿は、小浜の城より使者を出し、原々〔本のママ〕の御理を申すによって、矢田部坂へ懸り給いたりと告げければ、才八が云々、城主若狭守殿よりの御使者とあらば左もあるべし。家老の者どもの心得として、いまだ何事も見えざる内に、城下を通り給わぬ様にと、御理を申すは無礼なるに、承引せられたるは何事ぞ。ことさら、玄旨法印、我等を召して、時刻を移さず馳下るべしと、仰聞けられたる御言葉もあるに、人馬の労すべき山路を経て、いかでか迂遠たる方へ廻るべき。与一郎殿はともかくもし給へ、この才八においては、小浜の城下を通るべしというによって、彼に与えたる輩七八騎、ついに小浜の町へ乗込み、わざと後瀬山の麓、城の目の下を憚る所なく乗通して、伏原湯岡に掛り、遠敷河原にて与一郎と一手になりしとかや。一本に、かの才八がこの行跡を称して、その頃より、人々感じ合いたりと記す。 尚古按ずるに、才八は才智ある者なりしが、若州にての事は、畢竟若気の至なるべし。与一郎、もし不覚人にて、小浜の城下を通りしゆえに、主人与一郎に瑾を付けて、父忠興の見限りに逢われたる端を啓く。これはその身の誉を求めて、主君を辱むるというものなり。幽斎、始め沢村を召して、時刻を移さず、関東へ馳下るべしといわれしは、与一郎を輔佐する上での教なるべし。しかるをその旨の下知に託けて、いかで短慮を行いたるや。その上、小浜の城兵等、才八が主人にも随わずして、城下を通る無礼を憎み、もし門外にて遮らば、武前にゆえなく死するのみならず、あたら兵士まで数輩討たせ、あまつさえ、これより事破れて、忠隆の身の上、恙あるも知り難し。あれこれともに才八が忠義を失いたりとすべきにや。

1600.7:忠隆軍に合流した忠興は、戦いを避けて城下を迂回した忠隆の戦術を非難した。細川軍功記に七月三日近江国の「とだ」という宿で忠興忠隆親子が口論したとの記述がある。1600.10:千世大阪邸脱出が忠興の怒りに触れて、千世を離縁するよう忠隆に言い渡す。これは徳川の意を汲み前田家との縁を絶つ忠興の策であった。しかし忠隆は離縁を納得せず千世とともに高守城(丹後大江山)に滞在し、それが忠興の耳に入りさらに怒りを買って高守城から退去した。 (忠隆には、本能寺の変で妻ガラシャを庇って山奥の味土野に匿った父忠興に対する複雑な思いもあったと思われる)。

 ★★すなわち、荒木善兵衛が高守城預かりの時に、父細川忠興と不和になった忠隆がここ に一時身を置いた。室前田利家女も高守城の忠隆を訪れたがそれが忠興に知れて非難され、 二人で加賀に向かった「綿考輯録・巻五」。

 しかし徳川から謀反の疑いをかけられ五月に芳春院(まつ)を江戸人質に取られていた前田家が二人を受け入れるはずはなく、二人は京都に戻った。

1600.12: 忠隆(21才)は父と不和になり「父子不和:綿考輯録」、細川新領地の豊前へ赴くことはなかった。しかしこの後も千世は京都で忠隆と共に暮らしており、二人の間では離縁はしていなかった。★★「八代市立博物館平成十年度秋季特別展覧会出版物:関ヶ原合戦と九州の武将たち p91 (細川忠隆の廃嫡と忠利の後嗣)/林千寿 著」

 関ヶ原合戦当時、忠興にはガラシャとの間に3人の息子がおり、長男忠隆21才と次男興秋18才は父とともに出陣し、証人として江戸にあった三男忠利は徳川秀忠に近侍した。慶長五年六月二三日、家康の会津遠征に従軍するため、忠隆と興秋は先陣として丹後国宮津を出発する。父忠興は四女の万の病気により四日遅れで出陣したため忠隆が父に代わって軍勢を指揮し、その後近江国朝妻で忠興と合流して下野国まで進軍している。七月二五日、石田三成挙兵の報を受けて小山の評定が開かれる。忠隆はこの日、松井興長に宛てた手紙(松井文庫所蔵)の中で「明日は大略陣替候はんよし心得申候」と述べ、忠隆の予期したとおり忠興らの会津遠征軍は一転して東海道を西上することになり、忠隆もこれに加わった。忠隆自筆状二通(松井文庫所蔵)はこの西上の途に書かれたもので八月五日、六日付けと思われる。忠興と共に進軍を続けた忠隆は岐阜城攻撃、関ヶ原合戦に参加し、興秋とともに細川家の一員として奮闘した。徳川秀忠が九月二四日に出した書状(松井文庫所蔵)は、合戦における忠興・忠隆の戦功をたたえたものである。

 忠隆は関ヶ原を中心とする一連の戦いにおいて、常に父忠興に同陣して戦功をあげている。当時の忠隆の動向を見る限り、忠隆は忠興の跡継ぎの地位にある。ところが、戦後忠隆を待ち受けていたのは廃嫡という運命であった。「綿考輯録」によると、忠隆の妻前田千世が姑であるガラシャとともに死を選ばず屋敷から逃れたことが忠興の怒りを買い、千世をかばった忠隆は廃嫡されたという。しかしながら、その後次男興秋も廃嫡され、徳川家の心証の良い三男忠利が細川家の跡継ぎとなったことを考え合わせると、忠興が前田家との姻戚関係を断つことで新しい権力者となった徳川家への従順の意志を示して自家の存続を図ろうとした意図が浮かび上がる。忠隆が廃嫡された時期は豊前豊後への国替えが決定された11月から12月にかけてと考えられる。国替え決定後に書かれた松井興長宛の忠隆書状11月6日付は、国受取準備のため豊前に派遣された松井康之の労をねぎらう文書であり、11月20日付書状は、丹後で新知の豊前のことを気にかけながら忠興の帰国を待っている様子が書かれている。この2通の書状(松井文庫所蔵)を見る限り、忠隆が廃嫡された様子はない。忠興が豊前に移るのは12月になってからであるが、忠隆が豊前に来た形跡はないので、おそらくこの間に廃嫡されたのであろう。廃嫡後、剃髪して休無と号した忠隆は山城国北野に閑居し、正保3年に67才で亡くなった。(松井文庫所蔵の忠隆自筆状5通の内容は後掲)

 一方、三男忠利(光)も関ヶ原合戦を契機として人生の転機を迎える。光は慶長五年正月から証人(人質)として江戸にいた。このため忠興への従軍は叶わなかったが徳川秀忠に近侍する役目が与えられた。忠興は岐阜城攻撃にも関ヶ原にも出陣できなかった忠利を気遣い、遠征先から江戸の忠利宛に5通の書状を送っている。慶長九年(1604)忠興は跡継ぎを忠利に定めた。「徳川実紀」の記述では、忠興の望みによって忠利を嗣子にしたことになっている。しかし関ヶ原合戦当時、忠利が江戸で秀忠に近侍しその働きを認められている事を考えると、徳川家から何らかの意見があったのではないかと推測される。

 1601年:忠興はガラシャ葬儀を行うようオルガンティノ神父に頼み、6月(もしくは3月)大阪でのカソリック葬儀に参列して、金の延棒五本を教会に贈った(フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集)。遺骨は大阪の崇禅寺へ。1602年:すでに豊前豊後領主となっていた忠興は、この年に小倉城の築城を開始した(完成は1607年)。1604年:細川家では第3子忠利を忠興の嗣子と決め徳川に届ける。忠利は2人の兄を差し置いて嗣子となることを気にしていた。

 ★★忠隆は剃髪し長岡休無と号して、妻子を伴い京都で蟄居した。(新・熊本の歴史:熊本日々新聞社発行 花岡興輝著より)

 ちなみに蟄居後の忠隆は、固有の隠居所領6千石を持ち京都に在住していた祖父幽斎から支援を受けた。忠隆住居となった聚楽第跡地(旧利休邸)の北野屋敷(幽斎妻方の沼田家所有)も幽斎の斡旋である。1604年:忠隆と千世の嫡男熊千代(生年不明)が幼くして死去。号は、空性院殿即謳大童子。西園寺菩提寺に葬る(内膳御家譜地)。1605年:忠隆と千世に長女徳が誕生。徳は西園寺実晴公(後に左大臣)に嫁し、公満と公義(別名公宜又は随宜)を生み、59才京都で没する。 (内膳御家譜完)1606年:忠隆(休無)が母ガラシャ7回忌の時期に大徳寺高桐院の曾叔父(細川幽斎弟の玉甫和尚)を訪ねた。大徳寺では年忌供養の予定はなかったが、来訪を喜んだ玉甫の手でささやかなガラシャ供養が営まれた。

 ★★休無が、その慈母・秀林院殿華屋宗玉大禅定尼(玉の法名)の七周忌の時期に当院に参会した。
当時は粗末な供物さえもない状態であったが、その孝心に感じ入って私(玉甫)は次のような法話を挙げた。 http://www.tamahime.jp/text/episode/nenki.htm
 夙景七年如水流 人間万事一浮 酬恩一句還他去 蟋蟀吟床野草秋。

 (訳)7年という歳月は水が流れるように移り行き、この世の全ては泡のように儚い。 酬恩の句などを読むのはやめよう。蟋蟀(こおろぎ)の音が響く秋の風情で充 分だから。

 1608年:忠隆と千世に次女吉が誕生。吉は奥山三郎兵衛秀宗に嫁し、63才没。1609年:忠隆と千世に三女福誕生。福は京都の久世家初代の中将通式(通武?)朝臣に嫁し27才没。 その後、萬女誕生するも早世(内膳御家譜地)

 ★★久世家文書より http://archives.nijl.ac.jp/DB/dispeadfile.php?xmlfdir=1957021&xmlfname=32U33F_ead-src.xml&xslfname=ead4dhdphp.xsl

 久世家は村上源氏の流れを組み、久我家19代敦通の次男通式を祖とする。通式が久世家を称した時期は明確でないが、通式は元和五年(菱九)1619年10月に所領として山城国乙訓郡下久世村において二百石を新知されている。また細川忠隆の娘を室にした由縁で助成米が細川家から毎年送られた。通式−通俊−通音と続く。代々近衛府の役に任じられ通夏以後はいずれも権大納言に昇進。久世通式以後現在まで22代。明治後に子爵。

 1610年:細川藤孝公(幽斎)、京都三条車屋町の自邸で逝去し、南禅寺に葬る。葬儀参列者の中に休無の名はない。位牌は幽斎次男興元(この年に下野国茂木藩主1万石になる)の嫡男6才が肩車されて捧げたとの記録。 (綿考輯録)161■年:前田千世、忠隆と別れて加賀に帰り、前田八家のひとつ村井家(1万7千石)当主の長次に再嫁す。村井家には、長光(織田長孝二男)女子(前田利政女)女子(脇田兵部女)女子(村井理斉(長頼弟)女)の養子女がいる。

 なお京都では、忠隆隠居料としてこれより以後3千石(約6千石の所領に相当する扶持米)が認められる。 ★★「前田氏戦記集:村井家伝」には、千世は1605年に村井長次に再嫁とある が、これは千世死後30年経て村井家が前田藩に提出した史料を根拠とし ており信憑性に欠ける。 1613年:千世再嫁先の長次(1568〜1613)死去し、千世(33才)は春香院となる。村井家では、織田有楽斎孫の長光(長家、兵庫もしくは飛騨)が家督を継ぐ。1614年:千世の母である前田家の芳春院(まつ)、江戸人質から加賀に帰る。1615年:大阪落城、豊臣秀頼ら自害し豊臣滅亡。米田監物(後に帰参し細川藩家老となる)を伴い、大阪城豊臣方に参陣した忠興次男の細川興秋 (1605年細川家出奔。母ガラシャ)は、京都の稲荷山東林院で切腹。

 1616年:徳川家康公没。

 1617年:加賀前田家の芳春院(まつ)没。1620年: ★★「史料纂集 泰重卿記のU巻60頁」元和六年12月9日に土御門泰重卿が 「長岡休無へ諸白樽二ツ遣シ候」。 その諸白樽は、前日に泰重が吉宮(道晃親王)から諸白壱荷を拝領した お裾分け。

 1621年:忠興公三男の細川忠利(母ガラシャ)が正式に細川藩の家督を継ぐ。

 1621年: 忠隆と豊臣浪人長谷川求馬娘喜久(このとき21才)の長子、忠恒誕生。

 1622年:忠隆と喜久の次子、忠春誕生。1626年:この冬、忠興公は勘当後初めて北野の忠隆邸を訪問して、忠春など孫との対面・認知も行い、以後は忠興公上洛時(京都吉田に細川公邸あり)には父子の行き来が始まる(内膳御家譜地 永青文庫川口恭子氏読解)。

なお、この年に将軍家光公が上洛した際に忠隆を宥めて以後は還俗し たとの一色軍記があるが、これは忠隆と立允を混同しており信憑性に 欠ける。

 ★★「丹後叢書 一色軍記」 與市郎忠隆剃髪して名を立允と改め洛陽に閑居しけるが、遙かに後寛永の頃、三代 将軍家光公御上洛の時忠興夫婦の忠義をや思召されけん、彼立允を召出し給ひ還俗 させられ父の勘當をもゆるさしめたまひ、中務少輔と改名させらる。

1626年:11月京都の休無(忠隆)より小倉の忠利公へ書状。明石源左衛門が困っていることがあり豊前へ訪ねて行くのでよろしく頼む、と。 (福岡県史/小倉藩時代の項記述)。1627年:11月1日長岡休無から金春流能謠の中村家へ起請文(花押血判付き)。1628年:正月に休無より小倉に飛脚。町宿申し付けと京都借銀前書きの件 (福岡県史/小倉藩時代の項)。1628年:京都三人衆から忠利公への申越し。休無殿の娘婿久世家初代の通式 (通武?)殿が死去(36才)とのこと。忠利公は小倉泰勝院へお参りの際に御冥福を祈る(福岡県史/小倉藩時代の項)。このとき久世家室の福は20才。1632年:細川家は豊前小倉から肥後熊本へ移る。忠利公が熊本城主。父の忠興公は隠居所として八代城主へ。忠興公は忠隆を八代城に呼んで父子正式和解し(内膳御家譜地)、熊本で住むように説得したが、忠隆は固辞して京都に帰った。 1635年:忠隆三女で久世家室の福が京都で逝去27才。1638年: 三斎公、休無や大徳寺清巌和尚や松屋久重などと茶の湯(三斎公伝書)。

 1639年:三斎公、休無や清巌和尚や松屋久重などと茶の湯(三斎公伝書)。1641年:加賀村井家で前田千世(おちよ、春香院)死去62才。墓地は野田山。忠隆と離別後、芳春院と縁深い村井家に入って養嗣子を取り能登領熊甲神社を再建する等、経済的にも恵まれた余生を送った。「岩沢愿彦著 前田利家」

千世は芳春院34才で生んだ最愛の娘であり、数多い千世宛芳春院自筆状が村井家に残された(おちよ宛、かもじ(村井妻)宛、しゅんもじ(春香院)宛などを前田土佐守家資料館や加越能文庫で保存)「菊池紳一著 前田利家」。

 1641年:肥後熊本細川藩主の忠利公死去。

 1643年:三斎公、休無や土御門卿などと茶の湯の記録(三斎公伝書)。1644年:聚楽第跡休無邸の北野屋敷は京都毘沙門町にあり、休無は自邸で生涯を終えたことが判明。 ★「寛永二十年の滞在手形調査書に熊本藩関係者に毘沙門町の長岡休夢(休無の誤記) との記載あり: 朝尾直弘著 近世京都の牢人」

 1645.12:細川忠興公(三斎)、熊本八代で死去。

 1646.7:休無から熊本藩主光尚公宛に死後依頼状の書簡。1646.8:細川忠隆(長岡休無)京都で死去、66才。大徳寺高桐院(京都市北区紫野)に葬る。法号は泰仰院瑞巌宗祥。

休無隠居料三千石のうち、千石分は徳などの娘達に分けるようにとの遺言(三千石のうち、千は与八郎(忠恒)・千は伊豆(忠春)、五百はお徳・百四十は上ろう・百は玉甫・八十はおとう・八十はおんなどもへ。また百石を家計が苦しい久世中将殿へ)。 この遺言は実行された。 (綿考輯録61巻)

徳の夫西園寺実晴公は後に朝廷で左大臣まで昇進するが、それには西 園寺家が相続した休無遺産(西園寺家石高の大半を占める)が貢献と 推測。そのためか、西園寺家ゆかりの京都宝樹山竹林院にも休無分骨墓がある。また福が嫁した久世家に対しても、福死去後も米6石3斗 分の助力金が毎年仕送りされ(山城国京都久世家文書より)、次の代 になってからも上記のように休無遺産から百石が贈呈されている。 1648年:忠恒、忠春は藩主光尚公の招きで熊本下向し、一門家臣(休無から相続 の二千石が俸禄)として長岡姓を名乗る。母喜久(法名:眞光院)も熊本へ。

1651年:朝廷は、徳の夫の内大臣西園寺実晴公を勅使として日光に派遣した。 (徳川家光公に対して太政大臣・正一位の追贈と大猷院の謚号を決めたため)1660年:万治3年に忠恒は、肥後益城郡の秋多田村(現在の熊本市貢町瑞巌寺公園)の廃寺院を再興(光朝法印和尚に依頼)して菩提寺の瑞巌寺となし、京都大徳寺高桐院より分骨して長岡休無の墓を作る(内膳御家譜完)。

1663年:寛文3年9月13日、左大臣西園寺実晴御台所の徳が京都で逝去、59才。西園寺菩提寺に葬る(内膳御家譜完)。

1665年:西園寺随宜公の肥後下向と、薨去後の祀神社。

 「http://www.kikuyo.co.jp/html/shoukai/B.html#sai_haka」

 ★★熊本県古閑原西端から北に農道を登った芳ケ平に西園寺随宜公を祀る神社がある。 その境内中央部に玉垣で囲まれた墓碑あり、正面に「圓明院月渓浄心大禅定門」背面に「西園寺左大臣実晴男随宜之墓」と刻まれている。この墓の主西園寺随宜 朝臣は、時の左大臣西園寺実晴の末子として京都に生まれたが、生来宮仕えを好 まず、叔父にあたる長岡忠春の領分である肥後国入道水村の安福寺(阿弥陀堂) を仮の住居として寛文5年(1665)に移り住み、寛文10年8月15日に病のため約 45才で逝去。この神社は、長岡忠春(圓明院月渓浄心)が建てた。なお、ここで 娘(名は安とも伊也とも)が生まれており、京都に帰って婿(西園寺実輔)をとり、西園寺家を継ぐことになる。

1665年:寛文5年、藩主綱利公より忠恒(与八郎、長岡友山)に三千石への加増と、お城に屋敷を下さる。また忠清(忠春、長岡半左衛門、正室は小笠原長之娘の三)にも三千石への加増と千葉城屋敷を下さる。なお忠恒には嗣子がなかったため、後にこの三千石を忠春分に合わせて計6千石が忠春嫡子の三代忠季(忠重とも云う)に相続されて内膳家禄となった(内膳御家譜完)。1673年:寛文13年1月11日に徳の夫、左大臣西園寺実晴公が死去、71才。1680年頃:細川藩主綱利公娘(17才で死去の松のこと)が西園寺実晴公の孫?と婚約するも、女死去によって解消との記述あり(系図纂要11冊上)。1683年:天和3年4月24日、休無継室で忠恒・忠春生母の喜久(眞光院)が逝去83才。法名は眞光院霊■妙照。肥後瑞巌寺忠隆公墓横に墓を作り、葬る。

 1702年:益城郡秋多田村瑞巌寺を飽田郡島崎村茅原(千原)移設し、菩提寺に。

 1704年:内膳二代長岡忠春逝去83才。瑞巌寺埋葬。本浄院殿月渓義水大居士。

 1709年:長岡忠恒(友山)逝去89才。瑞巌寺埋葬。松雪院殿春■友山大居士。1716年:長岡忠季(室は長岡興知娘累也)の代、享保元年9月23日内膳家千葉城邸から出火し近隣屋敷とも焼失、内膳家は翌年2月朔日古京町邸に移る。

 1746年:三代忠季(忠重)次男の長岡季規は細川本藩家老に。1754年:藩主重賢公が藩校時習館設立、忠季嫡男忠英(タダフサ)が初代総教に。

 ★★宝暦五年正月四日、藩主重賢公の臨席を以って藩校時習館は開講式が挙行された。總 教(総長)に指名されたのは細川内膳家当主の忠英。宇野東風はその著「細川霊感公」 にて忠英を次のように紹介している。 「兵学を好み書を能くし、また武芸にも熟達す。時習館創立に及び、霊感公・重賢は教 育を重んじ、特に忠英を總教に任せられたるなり。尊名閣の創建せらるヽや、忠英自 ら扁額を書して掲ぐ。」

 1772年:四代長岡忠英が明和九年に74才歿。室は長岡図書興章娘の千勢。

 なお忠英の子は五代忠昌で、側室片山宗益娘との間に六代忠虎が誕生。

 1783年:還暦以後も細川藩国家老を務めた季規(長岡桂山)、八十才死去。1812年:内膳家六代長岡忠虎(室は藩主細川宣紀曾孫娘で長岡興度娘の千嘉)に嫡男の忠壽(タダヒサ)誕生。1824年:古京町二ノ丸邸は前藩主斉茲の隠居所として改築されることになり、やむなく内膳屋敷は城外の飽田郡牧崎村へ移転する。1850年:内膳七代の忠壽には男子無く、異母弟忠顕に内膳八代を継がせる。1852年:隠居の長岡忠壽(室は長岡図書興禮娘の久)に嫡男九代忠穀(タダヨシ)が牧崎邸で誕生。

 1871年:明治政府の廃藩置県。1875年:内膳九代細川忠穀と京都華族山本實政子爵(1900年に75才で没)長女の泰子(山本實庸子爵の姉にあたる)との間に嫡男忠雄(タダオ)誕生。1877年:西南の役で牧崎内膳屋敷は薩摩軍進路となり破壊される。

 1877年:1877年から1922年まで出水町砂取の現熊本県立図書館庭園(旧江津花壇)が内膳屋敷(砂取邸)となり、内膳家は砂取細川家とも呼ばれる。

 ★★「熊本市にある旧江図花壇(旧男爵砂取細川邸)庭園変遷に関する研究/延藤二三子 ・李樹華」を2005年潮谷知事が定例記者会見(県立図書館敷地の菖蒲園)で引用。

 1878年:明治維新で朝廷と熊本藩との間を取り持った内膳八代の細川忠顕(忠虎次男で1816年生、牧崎分家祖)逝去。瑞巌寺墓所に葬る。

 1879年:七代細川忠壽(遊山)逝去。瑞巌寺墓所に葬る。1885年:忠穀室の泰子逝去34才。法名は泰信院殿妙貞蓮實日成大姉。瑞巌寺墓所に葬る。

 1900年:内膳九代の細川忠穀(タダヨシ)に男爵位授与。1903年:内膳十代細川忠雄と男爵細川興増 (オキナガ:刑部子飼細川家、水前寺出水神社初代宮司)娘の綱子との間に、嫡子忠督(タダマサ)誕生。1905年:明治維新や廃藩置県体験の男爵忠穀逝去54才。法名忠信院殿宗穀義道日男大居士。瑞巌寺墓所に葬る。子供は3子(忠雄、隆恒、隆春)1女。男爵位は忠雄が継承。

 忠隆子孫は細川藩臣六千石、細川一門首座内膳家として明治に至り長岡姓から細川復姓。忠隆と喜久に始まる千原瑞巌寺跡内膳家歴代墓所(墓は五十二基)は熊本市島崎3丁目24の県営団地奥。なお内膳三代忠季(忠重)は、故ありて早々に隠居させられ、墓も久本寺(熊本市)にあったが平成二十年に千原墓所に移設した。 内膳家では他家養子をたてず、細川幽斎、忠興、明智光秀、ガラシャの血は歴代男系で現在まで継承。

                「細川内膳家系図」

 

  忠隆┬忠恒。      ┌隆春(三男)-隆康- :千原系

  └忠春-忠季-忠英-忠昌-忠虎┬忠壽-忠穀┴忠雄-忠督-忠幸-  :本家

           └忠顕*-隆虎┬隆顕-隆英。

                                         ├隆志-隆一郎-   :牧崎系

                                         └隆元(三男)。     

*忠顕は忠虎次男。忠壽後に内膳家督を嗣いだが、忠壽に忠穀が誕生したため分家。

「松井文庫所蔵 忠隆自筆状5通」

(解読は八代市立博物館学芸員の林千寿氏)

 12-5-2忠隆自筆状「小田原近辺の陣所無し、返事待ち」

松井新太良(興長)宛 1600年■月20日付 31cmx47cm

 書状披見申候、今朝 其方小姓両人まて披残候て 念入候、令満足候、

 小田原辺相披尋候へ共、陣所無之候由、無是非候、乍去、我等小姓、

 唯今其地辺へやと申越ニ進候間、返事待、様子丹後之儀無別儀候由自■

 相替儀候ハハ、重而可承候、恐々かしく  与

 二十日 忠(花押)

 12-5-1忠隆自筆状「陣替えのこと」 

松井新太良(興長)宛 1600年7月25日付 40cmx45cm

 ■人迄之書状、披見申候、明日ハ大略陣かへ候ハんよし心得申候、謹言、与

 七月二十五日 忠(花押)

 16-1-3忠隆自筆状「忠興小田原着陣、明日陣替え」

新太良(松井興長)宛 1600年8月5日付 31cmx45cm

 わさと書状令披身候、明日陣換の事、得其意候、しかれハ、其方之

 今夜之陣やを、明日我等可参候間、其方之者一人残しをキ候て

 可給候、明日早々■此方之者可遣候、それまての儀候、

 家かす二十五六もとり可 給候、但、又小田原のきわニ、家共多く候ハハ、

 同ハ小田原の近所ニてほしく候、かしく、

 五日  与一 忠(花押)

 16-1-2忠隆自筆状「遠国ではあるが豊前豊後を拝領。康之、興長を派遣」

松井新太良(興長)宛 1600年11月6日付 29cmx45cm

 尚々、書状 まんそく申候、

 態書状満足候、■内府様ヨり 越中ニ、豊前一國・豊後二郡被下候由候、

 思ひ之外遠国事候、其付又 松井彼国へ被下候よし、打つつき大儀と申事候、

 其方ハ松倉へ被越候よし、尤候、尚、期面 時候、 かしく、

 拾一月六日 忠(花押)

 12-5-3忠隆自筆状「豊前国替の用意はいかが。忠興も五三日中に御下り」

松井新太良(興長)宛 1600年11月20日付 31cmx49cm

 尚々、見廻祝着候、■上

 為音信、蛎壱桶到来、祝着候、豊前用意いかか候や、無心元候、

 越中も五三日中ニ、■元へ御下之由にて、其刻此地にて可申候、 かしく

 一月二十日  与 忠(花押)