■ 波々伯部(ほうかべ)操一 (南東7-8)(南東5-61)
1、三郎右衛門 十番・平山三郎右衛門組 三百石 (真源院様御代御侍名附)
2、権左衛門(入道随性)
(1)有吉頼母組 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
(2)御家老衆月番触 三百石外ニ高二百石物成被下之
貞享二年 〜 元禄□年 奉行
3、権左衛門(養子 実・平野九郎右衛門二男)
牢人分之衆 弐拾人扶持大判二枚 (御侍帳・元禄五年比カ)
4、丹太夫・豊行(養子) 二百石 御使番・御番方十二番 屋敷・京町 (肥陽諸士鑑)
5、丹太夫 三百石 九番与 (御国中御侍以呂波寄)
6、甚内
7、三郎右衛門
8、尉助
9、万八(権右衛門) 三百石 御使番・御中老支配
10、丈馬(章兵衛) 三百石
11、恒三 御番方七番・鎌田軍之助組 三百石
12、武一郎(三郎右衛門、操一) 三百石
■ 波々伯部権右衛門 (南東5-57)(南東63-33 *)
徳斎
1、甚兵衛
2、権右衛門
3、又一
4、権右衛門
○ 保利与兵衛 留守居組 百石 (於豊前小倉御侍帳)
御代官衆 百石 (肥後御入国宿割帳)
百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
○ 穂積宗元 拾人扶持廿石 延宝五年十月 御暇 (※)
■ 星野一十 (南東9-12)
1、勝右衛門
2、庄助 (1)馬廻組四番 百五十石 (於豊前小倉御侍帳)
(2)御馬廻衆 百五十石 (肥後御入国宿割帳)・・少助
(2)御馬廻衆八番・薮図書組 百五十石
3、左大夫 (1)長岡帯刀組 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
(2)御弓廿張頭 清左衛門組 百五十石、外ニ高五十石ノ御役料被下之
(御侍帳・元禄五年比カ)
細川綱利公御書出(天和三年)百五十石
星野左大夫知行所付目録(天和四年)
4、左大夫
5、庄右衛門(左大夫・邦秀) 百五十意思 御番方九番組組脇
6、貞八 百五十石
7、庄右衛門
8、庄助
9、仁参太(勝右衛門・一十) 須佐美権之允組・八代御城付 百五十石
何代か不明 庄左衛門
1、百五十石 御近習 (御侍帳・享保八年写)
1、八代御城付八代御番頭組 百五十石 (御国中御侍以呂波寄)
■ 星野嘉左衛門 (南東63-50 *)
1、四郎左衛門
2、嘉右衛門
3、嘉右衛門
4、嘉左衛門
星野如雲 名は実直、四郎左衛門と称す。伯耆流居合、四天流組打、揚心流薙刀
三芸の師範たり。明治十五年五月没す。年七十七。
(往生院・星野家歴代記念碑あり)
○ 星野伝吉 百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
○ 細川七左衛門 (1)頭衆 七百石 細田 (於豊前小倉御侍帳)
(2)七百石 (肥後御入国宿割帳)
■ 細田七蔵 (別項・荒木氏あり) (南東9-9)
荒木攝津守(村重 初・弥助) (荒木村重)
荒木十次郎
荒木七蔵(左馬之介)
荒木左馬助ハ攝津守村重の孫ニて、父ハ新五郎と申候、左馬助幼少にて親ニ離れ、
浅野但馬守殿江罷在候へ共、御直参を願ニ而京都に居住、烏丸光広卿前廉村重と
御入魂の訳を以江戸に被召連、光尚君へ被仰談候、則忠利君より被仰立、公儀江
被召出候、其比御城女中あらきと申人子無之ゆへ左馬助を養子可仕旨上意有之、親
類ニ而も無之候へとも上意ゆへ親子のむすひいたし候、然処右之女中故有て今度流
罪被仰付候間、左馬助も其儘被差置かたく御預ニ成、後熊本ニて果候
(寛永廿一年)五月十日御老中より之奉書
一筆申入候、荒木左馬助事、母不届有之付、其方へ被成御預候間、其国可被指
置候、扶持方等之儀委細留守居之者迄可相達候、恐々謹言
五月十日 阿部対馬守
阿部豊後守
細川肥後守殿 松平伊豆守
(綿考輯録・巻六十一)
参考:考証−「荒木一族のその後」 (若干の食い違いがみられる)
1、細田政之允 御使番 堀次郎左衛門組 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
細川綱利公御書出(元禄四年)二百石
2、 七蔵・村房(初・辰之介) 三百石 御小姓組三番 屋敷・手取
3、 七蔵
4、 政之允(七蔵)
5、 寿平太(政之允・七蔵) 御留守居御番方・寺尾・組脇 二百五十石
6、 勘左衛門 細川斎樹公御書出(弘化四年)百五十石
細田勘左衛門知行目録(弘化四年)
7、 平太(七之丞) 御番方十二番須佐美権之允組 百五十石
何代か不明
1、七蔵 御側物頭 三百石 (御侍帳・享和八年写)
1、七蔵 九番与 三百石 (御国中御侍以呂波寄)
1、政之允 御番方・松下清蔵組 三百石 (文政三年正月調・士席以上名録)
1、七蔵宛 細川宗孝公御書出(享保十九年)三百石
1、政之允宛 細川斎樹公御書出(文化九年)二百石
参考:雑撰録−巻3 「細田系図」「荒木略記同系図」
○ 細田庄内 切米人数 六石弐人 (於豊前小倉御侍帳)
○ 細野蝠斎 三斎様御附中津ニ相詰候衆 六拾石 (於豊前小倉御侍帳)
■ 堀 丹太 (南東9-1)
1、平左衛門・吉勝(好景)
(1)江戸江相詰衆 光尚公殉死 百石 (於豊前小倉御侍帳)
(2)御馬廻衆四番・筑紫大膳組 二百石
(3)七百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
原城にて武功被賞 本知弐百石、御加増弐百石 肥後守様御附 (綿考輯録・巻五十)
* 【細川光尚公殉死】 慶安四年三月廿六日 於・品川妙解院 六十三歳
* 弟 住江甚兵衛(綿考輯録・巻二十八)
越前産、元和中忠利に仕、光尚付 寛永十年九月知行三百石 島原陣後加増弐百石
都合七百石 奉行役 慶安四年三月二十六日殉死(肥後藩・主要系図による・以下同)
2、丹右衛門・勝安
慶安四年七月跡目相続三百石 寛文九年加増弐百石、弓頭 元禄九年正月致仕
(1)五番西郡要人佐組 三百石 (真源院様御代御侍名附)
(2)有吉頼母允組 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
(3)御物奉行 清左衛門組 五百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
堀丹右衛門知行村附(年代不詳)五百石
3、次郎大夫・時久(養子 実・丹右衛門弟次郎左衛門二男 初・土之進)
使番、中小姓頭、小姓頭、用人、大目付 享保十八年致仕
享保八年六月〜享保九年 中小姓頭
享保九年 〜享保十二年七月 小姓頭
享保十二年七月〜享保十三年正月 用人・後大目付に転
4、平太左衛門・勝名(巣雲)
享保十八年家督、中小姓頭、小姓頭、用人、大奉行、家老職、大組預三千五百石
三家老格 寛政四年七月致仕・隠居料知行千石 寛政五年四月廿八日歿・七十八歳
(1)忠太--五百石 御番方三番御使番
(2)御中小姓頭 五百石
(3)五百石并千五百石 宝暦六子七月十八日当役
(4)御家老・御備頭一番 三千五百石
享保二十年二月(大組附)〜天文五年六月 中小姓頭
天文五年六月〜延享五年七月 小姓頭
寛延元年七月〜宝暦二年七月 用人
宝暦二年七月〜宝暦六年七月 大奉行
宝暦六年七月〜明和三年十一月 中老
明和三年十一月〜寛政五年二月 家老
安永二年三月〜 寛政四年七月 備頭大頭
細川重賢公御書出(寛延元年)五百石
細川重賢公御書出(明和六年)二千石
堀平太左衛門 名は勝名通称平太左衛門、一名完、字は君綽(クンシャク)、巣雲と号す。
細川候に仕へ世禄五百石、人と為り膽気強く器識あり。重賢封を襲ひ、
小姓頭より用人に遷され其器を試みらる。竹原勘十郎の推薦により、
宝暦二年大奉行と為り、中老を経、家老に進み、一藩の政務を總簡す、
所謂宝暦改革の衝に當り、在職殆ど四十年、其功績は後世に被る。
食禄三千五百石に進み、三家の家老に比す。
平太左衛門、少時より経済実用の道に志し、常に国政の因循陵夷を憤
り、故老能吏に就て政道の要領、撰学、刑法、町在、勘定等の組立等
悉皆問尋ね、又江戸往復に大阪の銀米の形勢を見積りて、早く国家中
興の成算胸中にあるを、霊感公豫め能く察知し、政道の根本を委任す。
而して遂に大功を奏するに至り、米沢其他の諸藩よりは往々人を派して
法を採れり。又将軍家よりは堀某は善き者との褒詞あり。熊本藩政の基
礎は、皆平太左衛門の遺蹟にして、後世政務の標準として施行せざるは
なし。寛政五年四月廿三日没す、享年七十八歳。本妙寺山中に葬る。
明治四十四年十一月従四位を贈らる。
5、丈八(丹右衛門・勝文)
部屋住にて召出され千俵、番頭、大目付、中老職、家老職 文化五年七月致仕
隠居料百人扶持 文政七年四月十日歿
寛政元年元年三月(番頭)〜寛政二年十二月 大御目付
寛政二年十二月〜享和元年十一月 中老
享和三年三月〜文化五年七月 備頭大頭
堀 廉卿・・・・・ 名は勝文、字は廉卿、一名大簡、丹右衛門と称す。堀氏五代にして平太
左衛門の子なり。食禄三千五百石、藩の家老たり。
文政七年四月十日没す、享年八十二。墓は坪井宗岳寺。
6、次郎大夫・勝貞(平太左衛門)
文化五年家督、用人、大目付、中老職 文化九年五月七日歿・七十四歳
享和三年六月(用人見習)〜文化二年十月 用人
文化二年十月〜文化九年五月(病死)大御目付
文化七年十一月・平太左衛門ト改名
文化五年七月〜文化九年五月(病死)中老
7、哲太郎(養子 実・五代勝文弟大八子 平左衛門)
文化九年七月名跡相続、備頭、大目付 天保十四年十月歿
文政十二年十月〜天保九年十一月 備頭大頭
天保九年十一月〜天保十三年十月 大御目付
8、麟太郎(養子 実・六代勝貞子丹太 丹右衛門・勝任) 三千五百石
天保十四年十二月跡目相続 番頭、用人、備頭
天保十五年十二月(中着座)〜弘化二年九月 番頭
弘化二年九月〜嘉永六年一月 用人
嘉永六年一月〜慶応二年八月 備頭大頭
9、勝太
10、勝延(養子 実・弟)
■ 堀 勝馬 (南東9-2)
平左衛門・吉勝(好景)
1、次郎右衛門・時久(二男)
人持衆并組外衆 千石 (御侍帳・元禄五年比カ)
正保二年児小姓 慶安四年分知弐百石 追々加増都合千石 元禄七年二月致仕
2、次郎右衛門・正任
元禄七年家督 中小姓頭 享保七年正月致仕
宝永二年閏四月(外様大組附)〜 中小姓
延享三年七月〜寛永四年一月(被差除)用人
3、次郎右衛門(養子 実・沢村主膳三男 三次郎・一学、時常)
享保七年家督 中小姓頭、小姓頭、用人 寛延四年二月致仕
千石 御中小姓頭一番大組付 屋敷・京町
享保十五年一月〜享保十七年十二月 中小姓頭
享保十七年十二月〜延享三年七月 用人
4、五左衛門(養子 実・同氏次郎大夫勝行四男 勝七郎)
寛延四年家督 備頭、留守居大頭、番頭 天明三年二月致仕
5、次三郎(次郎右衛門) 大組附九百五十石
天明三年家督 五十石減知九百五十石 小姓頭、番頭 文化五年六月歿・五十七歳
寛政二年十二月〜寛政四年七月 中小姓頭
寛政四年七月〜寛政六年九月 小姓頭
寛政六年九月〜寛政十一年一月 留守居番頭
寛政十一年一月〜文化五年六月(病死) 番頭
享和三年九月〜文化一年十月 鶴崎番頭
文化三年九月〜文化四年十月 同上
6、五左衛門 御鉄炮十挺頭 清水組 八百五十石
安永七年一月(留守居番頭)〜天明二年五月 番頭
7、留吉(次郎兵衛) 旧知八百五十石、内三百五十石新知
8、栄喜(次郎右衛門・次郎左衛門) 御番方八番牧多門助組 七百五十石
9、勝太(十左衛門・勝馬) 七百五十石
何代か不明
1、次郎左衛門宛 細川綱利公御書出(天和三年)四百石加増・千石
1、次郎左衛門宛 細川綱利公御書出(天和三年)千石
1、次郎右衛門宛 細川重賢公御書出(寛延元年)千石
1、五左衛門宛
細川斎樹公御書出(文化九年)八百石
1、次郎左衛門宛 細川斎護公御書出(弘化四年)七百五十石
■ 堀 渡 (南東9-18)
村上彦右衛門
大田四郎右衛門
1、新五左衛門(村上式部・平右衛門)
有吉頼母允組 七百石 (寛文四年六月・御侍帳)
2、新五左衛門 御詰衆・一番松野亀右衛門組 又右衛門事 七百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
3、七郎兵衛・通雄 七百石 御聞番御番方 屋敷・手取
正徳五年七月〜享保十七年六月 番頭
享保十七年六月〜享保二十年五月(病死)用人
4、尉左衛門・通景(養子 実・沢村主膳子)
5、矢門 三十挺添頭 七百石 宝暦六子八月十一日当役
6、久兵衛
7、作太郎(尉左衛門) 中着座同列 八百石内百石御足高
8、寛次(七郎兵衛) 御留守居大番頭 七百石
嘉永五年五月(中小姓触)〜万延元年十一月 八代番頭
万延元年十一月〜文久元年十月(病死)留守居番頭
9、鯉一郎(尉左衛門・渡)
参考:新五左衛門義兄(弟)冨田小左衛門(光尚殉死)跡式について
堀新五左衛門二男藤松重次(伯父小左衛門重直殉死之年生レ申候、後小左衛門
ト改)四歳ニ成候時、承応元年小左衛門跡式五百石拝領
(綿考輯録・巻65-P492)
■ 堀 逸人 (南東9-23)
1、長左衛門 (1)留守居組・従是巳下 百石 (於豊前小倉御侍帳)
(2)御小姓組 四百石
2、求右衛門 有吉内膳組 四百石 (寛文四年六月・御侍帳)
3、岡右衛門 御使番・続団右衛門触組 四百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
4、岡右衛門・祐貞(半蔵)
5、求右衛門・祐寿(養子 初・加平次) 四百石 御小姓組御御番組 屋敷・山崎
6、五郎左衛門(岡右衛門) 十二番与 四百石
7、求右衛門(岡右衛門) 佐敷御番・佐敷御番頭之組 四百石
8、四郎左衛門
9、三郎彦(長左衛門)
10、辰之助(半蔵) 御番方十二番須佐美権之允組 四百石
11、新之助 明治二年正月三日千葉川津沖にて乗艦ハーマン号沈没、生死未相分
家来壹人、小者壹人存命 (肥後藩國事史料 巻九)
12、敬助(逸人) 四百石
何代カ:堀五郎左衛門 御詰衆 四百石 (真源院様御代御侍名附)
四百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
■ 堀 新吾 (南東9-24)
岸本新左衛門
堀 才兵衛
1、才助 (1)百石 御小姓組一番組み (2)江戸定詰 百石
細川宣紀公御書出(享保六年)百五十石
2、才兵衛 三番与 百五十石
3、又太郎(才兵衛) 細川重賢公御書出(明和六年)百石
4、暦次 御番方・木下平馬組 高百石之御擬作
5、才助
6、豊助(助之允・新吾) 御擬作高百石
■ 堀 傳吾 (南東9-29)
才兵衛
1、又助
2、又助
3、慶太
4、弥傳 御奉行触御中小姓・御本丸御座敷支配役 廿石五人扶持
5、傳吾 御中小姓之御案内役并御駕役 御小姓支配頭之支配
廿石五人扶持内十石弐人扶持御足
細川斎護公御書出(弘化四年)百石
6、又助
7、次郎助(傳吾)
■ 堀 貞次 (南東63-51 *)
岸本新左衛門
1、 次左衛門(堀又助)
2、堀 傳右衛門
3、 傳大夫
4、 貞次 御中小姓
■ 堀 三木次 (南東63-52 *)
1、九郎右衛門
2、理助
3、九郎右衛門
4、理助
5、三木次
○ 堀 又兵衛 十番平山三郎左衛門組 二百石 (真源院様御代御侍名附)
二百拾石 (真源院様御代御侍免撫帳)
長岡監物組・組脇 二百拾石 (寛文四年六月・御侍帳)
○ 堀 太兵衛 御詰衆 七百石 (真源院様御代御侍名附)
七百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
○ 堀 平八 御小児性衆 二百石 (真源院様御代御侍名附)
○ 堀 平介 志水久馬介組 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
御側組外衆 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
屋敷:新熊本市史・地図編T-28(山崎之絵図)p60 御花畑南側
■ 堀内軍蔵 (南東9-14)
熊野別当・堪増(家記)
・
・
・
安房守(氏善) ja.wikipedia.org/wiki/堀内氏善
半助・宗加(実・弟)
構之助・近重
三郎兵衛(吉田彦兵衛・重久)
1、角之允(入道角入)
(1)御詰衆 二百石 (真源院様御代御侍名附)・・角丞
(2)有吉頼母允組・組脇 二百石
(3)二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・角丞
(4)有吉頼母允組 組脇 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)・・角之丞
2、弾(初・平八 弾蔵・重種 後・之篤)
御詰衆六番・兼松七左衛門組 五百石 (御侍帳・元禄五年比カ)・・平八
宝永五年閏正月(留守居)〜享保十五年四月(隠居)用人
3、尉九郎・之善 千弐百石(此内千石被召上、新知二百石被下)御側御用人 屋敷・手取
享保十六年五月(大組附)〜元文元年六月 小姓頭
女・尾藤家四代知有室 (尾藤家系図)
4、助五郎 十番組 二百石 細川重賢公御書出(明和六年)二百石
5、市之助
6、坤次 享和二年八月〜文化元年五月 奉行副役
文化元年五月〜文化六年八月(病死)奉行
堀内坤次 名は之弘、坤次と称す。食禄二百石。穿鑿頭、奉行職等を勤め、夙に勇壮
の名あり。又剣射の技に精しく騎法に熟す。文化六年八月四十七歳にして
江戸に没す。三田大増寺に葬り、遺髪を分ちて西岸寺に葬せり。
7、律次 御鉄炮三十挺副頭・水野久左衛門副頭・薮組 二百石
8、尉九郎 御番方十二番・寺尾九郎佐衛門組 二百石
天保十三年十一月廿六日:堀内尉九郎、在宅願之書付達有之候処、飽田・託摩在宅
申候儀者今度被仰出候通ニ付、先内意有之候上、願書
達之筈と組脇迄差返候事
(熊本市史資料編第三編p264在宅願頭書)
9、軍蔵 二百石
参考:武家家伝−堀内氏
■ 堀内卓爾 (南東9-7)
安房守
半助
構之助
三郎兵衛
1、文左衛門 (夫右衛門)
(1)御使番衆 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)
(2)三十挺組・小兵衛与 三百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
2、文左衛門・繁政(入道二観)
3、三郎兵衛(養子 実・宮川嘉左衛門二男)
4、源之允 幼少--三百石 御郡奉行御鉄炮頭 屋敷・山崎
5、小源太(文左衛門)
6、左門太(十三郎) 御番方・牧新五組 二百石
万延元年三月〜文久元年六月 芦北郡代
細川斎樹公御書出(文化九年)二百石
7、三郎兵衛(久左衛門) 御郡代当分 二百石
8、源之允(卓爾) 二百石
慶応三年五月〜明治元年二月 玉名郡代(山本、山鹿、菊池、合志郡助勤・兼)
同上 山本郡代(玉名郡より助勤)
同上 山鹿郡代( 同上 )
同上 菊地郡代( 同上 )
同上 合志郡代( 同上 )
■ 堀内角平 (南東9-16)
安房守
半助
構之助(彦兵衛?)
1、八右衛門 (1)御詰衆 二百石 (真源院様御代御侍名附)・・吉田八右衛門
(2)有吉頼母允組・組脇 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)
2、半助(八右衛門 初・藤兵衛)
3、彦四郎・正勝(養子) (1)二百石 御小姓組組脇六番・御鉄炮頭 屋敷・山崎
(2)二百石外五十石
享保十八年頃〜 上益城郡奉行
寛延三年三月頃〜
下益城郡奉行
4、五郎兵衛 二百石
5、平大夫 細川重賢公御書出(明和六年)百石
名跡相続の知行割(宝暦三年)百石
在宅願頭書(熊本市史資料編第三編p248)
堀内平大夫、宝暦四年家督、其前より在宅仕居候処押移、明和三年ニ至り
在宅願之儀不心付迷惑との儀、書付相添願相添 (明和三年九月)
6、角平
7、半助 御近習御次御物頭列・浜町御近習支配頭之支配 御小姓役 百石
8、直八(弾右衛門)
9、平助(角平) 百石
不明:堀内五郎兵衛 御詰衆・六番兼松七左衛門組 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
参考文書 盤桓随筆(巻四)--堀内彦四郎エ野津惣右衛門無礼ノ一件
■ 堀内三■(サンエキ) (南東56-2 医)
安房守
半助
彦兵衛(構之助?)
1、三盛 医師并伽之者 二百石 (於豊前小倉御侍帳)
御医師衆御伽衆御茶湯衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
御医師衆御伽衆御茶道衆 二百石 (真源院様御代御侍名附)
二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
御医師衆・御茶道衆 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)
外様御医師 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
屋敷:城内桜馬場(新熊本市史・地図編24 p44)
2、三盛
3、三盛(初・三怡 正久) 二百石 目医師 屋敷・宮内
4、三怡
5、三益
6、三順 外様御知行取御医師 二百石
7、三郁
8、三盛
9、三■ 御医師触役・御物頭列 二百石
お詫び 九代目の名前について
わが愚なる電脳機器は(エキ)なる文字を表記出来ませんでした。
説明する為にも旁の文字が又表記できません。ごめんなさい。管理人
何代か不明
1、三盛 眼医・御物頭列 百石外二百石 寛延三午正月十一日当役(御国中御侍以呂波寄)
1、三盛 触役触 眼科 二百石 (文政三年正月調・士席以上名録)
■ 堀内謙太 (南東9-15)
安房守
彦兵衛
三盛
1、喜左衛門・貞元
2、喜左衛門(養子 実・真野善右衛門 初・幸右衛門) 二百石
御鉄炮廿丁頭御番方御小姓組若殿様附 屋敷・千段畠
3、喜多夫
4、作右衛門 諸御町奉行 二百石
安永九年五月(番方)〜寛政四年七月 高橋町奉行・後十挺頭ニ転
5、彦蔵(喜左衛門)
6、七郎大夫
7、彦弥太
8、喜左衛門(希左衛門・謙太) 二百石
何代か不明
1、喜左衛門 細川綱利公御書出(貞享二年)二百石
1、喜左衛門 元禄十三年五月(目付)〜宝暦三年九月 奉行
1、喜右衛門 御次 二百石(御侍帳・享保八年写)
1、喜大夫 川尻御作事頭 二百石(御国中御侍以呂波寄)
1、喜右衛門 御番方・宮村典太組 槍術師役 二百石(文政三年正月調・士席以上名録)
1、喜右衛門 二百石 天保七申八月改易 死刑被仰付(弘化二年写・御家中御知行高附)
■ 堀内傳内 (南東9-20)
彦兵衛
三盛
1、傳右衛門・勝重(入道旦夕) (赤穂義士接待役・堀内家文書)
菩提寺・日輪寺
御詰衆二番・志水三左衛門組 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
細川綱利公御書出(貞享二年)二百石
堀内傳右衛門覚書、旦夕覚書(肥後文献叢書・第四巻)
ろんがいび:堀内伝右衛門の一族
2、傳右衛門・重武、正武(庄助 養子・義弟=初代傳右衛門妻の弟)
3、傳右衛門(養子 実続勘平子 伝次) 二百五十石 御鉄炮十丁頭御番方三番 屋敷・千反畑
4、三次郎
5、恩次
6、佐八郎(傳右衛門) 文化四年三月十五日:堀内佐八郎儀、桜井庄次郎掛持之屋敷江、当分
家内共ニ罷越申度由ニ付而、長岡岩之丞より問合返答之事
(熊本市史資料編第三編p259在宅願頭書)
7、直右衛門
8、傳助(傳内) 須佐美権之允組・八代御城付 二百石
細川慶順公御書出(万延二年)百五十石
何代か不明
1、傳右衛門 御番方組脇三番 宝暦二申二月十三日当役(御侍帳・享保八年写)
1、傳右衛門 八代御城付八代御番頭組 二百石(文政三年正月調・士席以上名録)
○ 堀内源丞 御詰衆 二百石 (真源院様御代御侍名附)
二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
○ 堀内作右衛門 沢村宇右衛門組 六人扶持 (寛文四年六月・御侍帳)
○ 堀江半兵衛 (1)馬廻組三番 三百石 (於豊前小倉御侍帳)
(2)御馬廻衆 三百石 (肥後御入国宿割帳)
○ 堀江吉左衛門 留守居組・従是巳下 二百石 (於豊前小倉御侍帳)
○ 堀江勘兵衛 御小姓組衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
御側組外衆 四百石 (真源院様御代御侍名附)
四百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
「嶋原一揆の時の現地奉行」
壱千石 寛文元年閏八月十二日知行被召上候 (※)
四十人扶持被下置・病死
■ 堀尾恩次郎 (南東9-8)
1、武右衛門 御詰衆・松野亀右衛門組 天草定役 三百石
2、万右衛門 元禄十四年十二月(着座)〜享保元年十二月(病死)用人
3、万右衛門 元文三年七月(大組附)〜宝暦二年九月 中小姓頭
4、茂助(夫右衛門)
千石 拾挺頭 宝暦十一巳十一月十四日当役 帯刀先生吉晴ヨリ出 (堀尾吉晴)
安永二年三月(二拾挺頭)〜安永八年十一月 八代番頭
初・茂助、安永六年一月改名
5、義三郎 大組附 九百石
寛政五年二月(三拾挺副頭)〜寛政五年六月 八代番頭
6、仙太 仙多--九百石
文化十三年三月(使番)〜文政二年閏四月 中小姓頭
7、彦蔵(養子 彦左衛門) 御番方・牧新五組 八百石
嘉永三年三月〜安政三年正月 鉄炮五十挺頭
細川斎護公御書出(文政九年)八百石
8、十郎左衛門 御番方五番・沢村八之進組 八百石
9、鶴次郎(萬右衛門・恩次郎) 八百石
肥陽諸士鑑に次の記載あり
* 夫右衛門
* 万右衛門・一房
* 夫右衛門 恩次郎・房精 千石 御側御用人御奉行触 屋敷・桜馬場
参考 4代茂助の項 「帯刀先生」
松江二十四万石城主・秀吉三家老の一人、堀尾茂助吉晴の号
参考:堀尾帯刀先生吉晴室・・・中村一氏妹(姉?長幼不明)
(米子史談17 中村家の諸系譜)
■ 堀尾仙左衛門 (南東63-49 *)
1、武右衛門 御詰衆・一番松野亀右衛門組 天草定役 三百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
2、仙左衛門
○ 堀川喜左衛門 御使番衆 御目付 二百石・外ニ高百石之役料被下之 (御侍帳・元禄五年比カ)
■ 堀口源八郎 (南東63-53 *)
1、源助
2、源八(源助・源次兵衛)
3、源八郎 (1)御奉行触御知行取・江戸詰御奉行触 定府 百石
(2)御知行被召上候 文政六年十一月 御切米廿石五人扶持
○ 堀口勘兵衛 供之者・御扈従与也 二百石 (於豊前小倉御侍帳)
■ 堀田九平太 (南東9-22)
孫右衛門(入道道悦)
1、甚右衛門(宇右衛門)
(1)二番谷内蔵允組 二百石 (真源院様御代御侍名附)
(2)二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
寛永十年頃〜寛永十四年十二月 飽田詫摩郡奉行
寛永十五年〜 野津原鶴崎郡代
細川忠利公御書出(寛永十年)二百石
細川光貞公御書出(寛永十八年)二百石
2、甚右衛門 長岡監物組 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)
細川綱利公御書出(寛文元年)二百石
3、甚助 御詰衆・四番横山藤左衛門組 預知 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
4、甚助・之重、之里(養子 初・金平)
(1)二百石 御番方十二番 屋敷・京町
(2)御算用奉行 二百石
堀田金平知行引渡差紙(年代不明)二百石
5、孫右衛門 宝暦三年一月〜宝暦三年五月 芦北郡奉行
細川重賢公御書出(寛延元年)二百石
6、九平太 六番与 二百石
7、金吾 二百石 細川斎樹公御書出(文化九年)二百石
堀田金吾知行引渡差紙(年代不詳)
8、甚助 八代御城付八代御番頭組 二百石
細川斎護公御書出(文政九年)二百石
9、文之助(甚右衛門) 御番方組脇 二百石
細川慶順公御書出(万延二年)二百石
10、甚助(九平太) 二百石
堀田甚助知行引渡差紙(年代不詳)二百石
何代か不明 甚助
享保八年九月〜享保十八年 阿蘇南郷郡奉行
享保十六年三月〜享保十七年四月 宇土郡奉行
享保十八年頃〜 飽田詫摩郡奉行
何代か不明 堀田甚助宛 細川宣紀公御書出(正徳六年)二百石
■ 堀田慎太郎 (南東9-19)
孫右衛門
1、諸兵衛 三百石--玉名 (真源院様御代御侍免撫帳)
寛永十三年八月〜寛永十六年 芦北郡奉行
2、安右衛門 御留守居衆・田中左兵衛与 三百石 (寛文四年六月・御侍帳)
3、諸兵衛
4、諸兵衛・之昌(養子 実同氏次右衛門嫡子 初之房) 三百石
御小姓組二番御使番 屋敷・京町
5、諸兵衛
6、佐左衛門(諸兵衛) 三百石
7、九郎助(角右衛門) 三百石
8、諸兵衛 御番方九番・中村進士組 三百石
9、九郎助(左兵衛・慎之允・太郎・慎太郎) 三百石
何代か不明
1、諸兵衛 御詰衆・十一番西山八郎兵衛組 三百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
1、所兵衛嫡子口弥 申ニ八ッ 津田治左衛門組 拾二人扶持(御侍帳・元禄五年比カ)
1、諸兵衛 御小姓組三番 三百石 (御国中御侍以呂波寄)
参考 真源院様御代御侍名附 堀田猪兵衛 三百石 組外衆
■ 堀田権十郎 (南東9-13)
諸兵衛
安右衛門
1、次右衛門・之成(二男 入道露計))
3、安右衛門 百五十石 御小姓組二番御鉄炮十丁頭御番方一番 屋敷・京町
3、次右衛門
4、安右衛門
5、次右衛門
6、軍助(権右衛門)
7、権蔵(次右衛門)
8、五郎八(安右衛門・権十郎) 御擬作高百石
5代カ 次右衛門
細川斎樹公御書出(文化九年)百石
■ 堀田市衛 (南東9-11)
孫右衛門
諸兵衛
1、彦之允 (1)八代与力衆 百五十石 (真源院様御代御侍名附)
(2)百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(3)八代御城付衆 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
2、七右衛門・政休
八代御城付 百五十石 (御侍帳・元禄五年比カ)
細川綱利公御書出(天和三年)百五十石
3、勘平・之能 二百石 御小姓組二番御郡奉行
享保六年頃〜 飽田詫摩郡奉行
享保十四年閏三月(十挺頭)〜享保十八年 奉行
4、七右衛門
5、大十郎
6、佐次郎(七郎右衛門) 二百石
7、永次 御番方・木下平馬組 二百石
8、虎彦(市衛) 松山権兵衛組・御番方四番組 百五十石 (ニ百石)
細川斎護公御書出(弘化四年)百五十石
○ 堀田八郎兵衛 三番丹羽亀丞組 二百石 (真源院様御代御侍名附)
二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
沢村宇右衛門組 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)
○ 堀田九郎左衛門 長岡帯刀組 三人扶持拾石 (寛文四年六月・御侍帳)
■ 堀部次郎 (南東9-6)【甚之允家】
弥兵衛・勝綱
二(次)郎左衛門・成勝(赤穂浅野家臣・堀部弥兵衛金丸兄)
1、甚之允・友政 (堀部弥兵衛・甥甚之允家に伝わる堀部家資料)
(1)沢村宇右衛門組 六人扶持 (寛文四年六月・御侍帳)
(2)御家老衆月番触 二百石外ニ高百石ノ物成被下之 (御侍帳・元禄五年比カ)
貞享三年三月(目付)〜元禄十三年二月 奉行・後弐拾挺頭ニ転
細川綱利公御書出(寛文六年)二百石
堀部甚丞知行所付目録(寛文六年)
堀部甚丞差出(天和三年)
堀部甚丞手取取請取(天和三年)
同上 (年代不詳)
堀部甚丞差出(貞享三年)山崎喜八郎事について
同上 長嶋兵助事について
堀部甚丞親類付扣---下記参照
堀部甚丞差出(年代不詳)山崎寿庵事について
細川綱利公御書出(元禄十三年)三百石
堀部甚之丞知行目録(元禄十三年)
堀部甚之丞知行所付目録(元禄十三年)
2、三右衛門・友貞 堀部三右衛門差出扣(正徳元年)三百石
同上 (正徳二年)三百石
細川宣紀公御書出(正徳六年)三百石
3、甚之允・友統(養子) 細川宗孝公御書出(享保十九年)三百石
4、次郎左衛門・推定 (1)御鉄炮拾挺頭 二百五十石
(2)三百石 御番方八番同組脇 屋敷・千段畠
(3)三百石 御小姓与三番組脇 宝暦八年四月十八日当役帰役
細川重賢公御書出(寛延元年)三百石
5、百次郎・定経(養子 九郎兵衛)
跡目知行(減知)の覚(宝永七年)二百五十石(五十石減知)
堀部百太郎知行所附目録(宝暦十三年)二百五十石
下六嘉村堀部百次郎知行高人畜帳(宝暦十三年)
西山村堀部百次郎知行高人畜帳(宝暦十三年)
同上 (宝暦十四年)
九郎兵衛・細川重賢公御書出(明和六年)二百五十石
堀部九郎兵衛知行目録(明和六年)
細川治年公御書出(明和六年)二百五十石
細川斎茲公御書出(天明八年)二百五十石
6、義之助・庸直(養子) 御番方・遠藤関内組 二百石
堀部義之助知行所附目録(寛政八年)二百石
細川斎樹公御書出(文化九年)二百石
堀部義之助知行目録(文化九年)
7、三右衛門・友秀 新知二百石
細川斎護公御書出(文政九年)二百石
8、嘉膳(次郎左衛門・次郎 友常) 二百石
細川慶順公御書出(万延元年)二百石
参考 新訂・堀部金丸覚書 赤穂義士資料館 佐藤誠氏校訂
参考 「堀部甚丞親類付扣」
他国二居申候親類付差出
一、伯父 牢人ニ而江戸二居申 堀部弥兵衛
一、従弟 右同 堀部安兵衛
一、従弟 京都ニ居申候
小崎 知拙
一、従弟 紀州ニ居申候
青地弥五兵衛
右之外親類縁者無御座候、 以上
年号月日
此内住所之所を其元ニ而御書付可被下候、以上
(堀部弥兵衛、安兵衛共に牢人とある処から浅野家改易後のものである事が分かる。)
消息:堀部次郎左衛門 (新熊本市史・通史編第三巻--近世1 p602)
覚
私組組脇堀部次郎左衛門娘、長尾安右衛門嫡子権五郎後妻縁組仕りたく
願奉候、以上
宝暦十一年九月十三日
御奉行中 小林左七左衛門
参考:参勤交代日記(堀部次郎左衛門) 古文書で読む参勤交代
■ 堀部源次 (南東9-4)【右学家】
弥兵衛
次郎左衛門
1、甚之允・友秀
2、左近右衛門・友英 正徳元年十月(着座)〜正徳五年八月 用人・後新組ニ転
3、源兵衛・清矩(友詮) 御使番 堀次郎右衛門組 高百石之御擬作 (御侍帳・元禄五年比カ)
堀部源兵衛合力米替(元禄五年)
堀部源兵衛手取分
4、伊三次(左近右衛門・清詣) 御鉄炮拾挺頭 七百石
細川重賢公御書出(明和六年)七百石
5、右学・清貞) 御物奉行 八百石
6、源兵衛・推一(養子) 御番方・朽木内匠組 七百石
嘉永四年二月(三拾挺頭)〜嘉永四年十二月 鉄炮語拾挺頭
7、助左衛門・清之 御用人 七百石
■ 堀部常三郎 (南東9-21)【庄兵衛家】
弥兵衛
次郎左衛門
1、庄兵衛・惟友 (甚之允・弟) 奥田藤次郎組 五人扶持廿石 (御侍帳・元禄五年比カ)
2、喜八郎・永勝
3、長兵衛・勝当(小平次) (1)百五十石 御番方五番 (2)百五十石 清源寺御番
4、文八郎・尚良(養子 九右衛門) 百石 宝暦十ニ午七月当役
細川重賢公御書出(明和六年)百石
5、貞蔵・惟親(源三右衛門)
6、甚三郎・惟徳
7、常彦(常之允)
■ 堀部 安 (南東9-3)【文五郎家】
助左衛門
弥兵衛
弥兵衛・金丸
1、安兵衛・武庸
* 弥七(忠見文五郎・言真)
2、八十之允・言芳 八之允--御小姓組四番 四百石
3、兎毛・金庸
4、藤馬・金宣(養子 実・金庸弟) 御奉行触御知行取・江戸詰御奉行触 定府 二百石
細川斎樹公御書出(文化九年)百五十石
5、清兵衛・寛 (堀部弥兵衛・甥文五等家に伝わる堀部清兵衛家蔵古文書)
細川斎樹公御書出(文化九年)百五十石
堀部清兵衛知行目録(文政九年)
6、弥太郎 御前様御座敷御番平士 百石
細川斎護公御書出(弘化四年)百石--御奉行触
7、良内(弥右衛門・安之允)
8、健蔵(弥助・安)
■ 堀部忠兵衛
弥七(忠兵衛) 実・堀部弥兵衛妻わかの甥忠見文五郎言真
三百石 御小姓組六番
細川宗孝公御書出(享保十九年)三百石
細川重賢公御書出(寛延元年)三百石
■ 本郷弥吉太 (南東9-28)
1、山田某
2、勘兵衛
3、半右衛門
4、理兵衛
5、理右衛門
6、純之助 (1)御中小姓之御祐筆・御祐筆頭之支配 廿石五人扶持
(2)新知 御擬作取百石
7、少助
8、角助(弥吉太)
■ 本庄角太 (南東9-26)
1、本庄喜助
【細川忠利殉死】 寛永十八年四月十六日 十五石五人扶持
介錯・荒見弥太夫
牢人・忠利部屋住時代召出
跡式 二男・熊助 十五石五人扶持・家屋敷 六月十七日
2、本庄(柴住)角兵衛(喜助嫡男--父喜助殉死の折には別家を立てていた。喜助跡式の熊助は次弟)
江戸江相詰衆 百石 (於豊前小倉御侍帳)
御中小姓 百五十石 (肥後御入国宿割帳)
御側物頭衆 百五十石 (真源院様御代御侍名附)・・柴当角兵衛
百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
有吉内膳組 十挺(頭)百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)・・紫当角兵衛
(柴当角兵衛) 御側物頭衆 百五十石 (真源院様御代御侍名附)
細川忠利公御書出(寛永九年)百五十石
細川綱利公御書出(寛文六年八月五日)百五十石
細川綱利公御書出(寛文六年八月十五日)二百石(加増五十石)
細川宣紀公御書出(正徳六年)二百石
参考 弟・熊助--柴任(しばとう)三左衛門美矩(義矩) 喜助跡式・十五石五人扶持、家屋敷
承応二年(1653)に寺尾孫之丞から「五輪書」の相伝を受けている。他藩への兵法伝播を志して
細川家を辞し、福岡黒田藩の兵法指南役として三百石で召抱えられ、黒田藩二天一流の元祖と
なった。弟子の吉田実連に明暦二年(1656)に「五輪書」水の巻を伝授し、順次延宝八年(1680)
までかけて空の巻まで皆伝している。 (福田正秀著・宮本武蔵研究論文集より)
参考:室 浦上十兵衛(宮本武蔵・五輪書相伝)女
3、紫任(住)角右衛門(槌之助) 貞享四年十月行跡不被為叶御意旨ニ而御知行被召上
御詰衆・九番佐久間平右衛門組 前カミ有り 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
貞享四年十月十三日知行被召上候 二百石 (※)
細川綱利公御書出(元禄三年)二百石
4、本庄角右衛門 (角兵衛・喜助 重税)
御小姓組二番組脇歩頭御弓頭・屋敷京町 二百石 (肥陽諸士鑑)
1、赤穂義士・間瀬久太夫介錯
1、享保十二年於江戸乱心二而自殺
*享保十二年の死に関係すると思われる事柄
宣紀公代因弊神谷矢柄専権 御物頭本庄弥一兵衛、組子の者以っての外困窮
難儀に及び候に付き、御救等厳しく申立候---矢柄立腹止不申---弥一兵衛書
置二通認(組之者及渇命候儀難見捨)切腹---横目(目付)矢柄を恐れ是を焼き
捨て---弥一兵衛乱心に相成候 (井淵集)
「井淵集に弥一兵衛と記せしは誤ならんか」(細川霊感公)として角右衛門
の事だとしている。 管理人
5、本庄喜助 享保十二年六月召出
6、 喜源太 安永四年三月病死
7、 勇七(養子)
8、 角太
9、 喜右衛門(喜源太)
10、 角之允(角太) 五人扶持廿石
著作:当代・本庄敏夫氏著 「本庄家系譜」
◎ 尚、柴当、柴任、柴住等の表記があるが、宮本武蔵研究家福田正秀氏の
研究により「柴任」が正しい事が確認された。
本庄家家譜
■ 本庄源八 【丹後以来】 (南東9-5)
1、久兵衛
2、久右衛門 留守居組 二百石 (於豊前小倉御侍帳)
御留守居衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(忠利君)慶長五年正月ニ十五日、江戸江御証人として大阪御発足被成候、御供
(綿考輯録・巻二十八)
3、太兵衛 (1)百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
(2)御馬廻衆九番松野右京組 百五十石
(3)御留守居衆田中左兵衛組 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
4、彦右衛門 御詰衆・六番岩越忠右衛門組・組脇 預知 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
延宝八年二月〜天和三年一月 菊池郡奉行
天和三年一月〜 山鹿郡奉行
細川綱利公御書出(天和三年)二百石
5、久右衛門・正次(初・彦右衛門)
6、太兵衛(多十郎・彦右衛門)
四天流・剣術、居合師範
平野角太夫門弟にて宝暦四年両しゃ(木扁に射)出来之節居合剣術の門弟多有之由心懸
奇特に思召上今度稽古所被仰付士席以上は総而罷出候様仰付太兵衛儀家業にも無之師
役同前に罷出迷惑にも可存候得共家中一統之稽古所被仰付間罷出門弟中弥以相励候様
稽古仕せ可申旨被仰付候段御用番被仰渡候に付宝暦五年正月より出しゃ仕候事
(諸師役流儀系図)
(1)二百石 御番方十二番 (2)拾挺頭 二百石 宝暦六子八月十一日当役
7、源八 二百石 御留守居御番方・住江次郎右衛門組
8、弥熊(久兵衛)
9、太次郎(太兵衛・源八) 二百石
本庄源八 名は正明、関流撃剣居合の師役なり。文化八年八月没す。年七十二。
10、勝馬(太兵衛)
11、藤次郎 御番方四番沢村八之進組 二百石
12、源八 二百石
■ 本庄源次 【丹後以来】 (南東9-25)
久兵衛
久右衛門
1、十三郎(次右衛門)
(1)供之者・御扈従与也 百五十石 (於豊前小倉御侍帳)・・次左衛門
(2)御馬廻衆四番・筑紫大膳組 百五十石
(3)清田石見組 百五十石
2、傳兵衛 御詰衆・十一番西山八郎兵衛組 百五十石 (御侍帳・元禄五年比カ)
3、次右衛門・安之(養子 実・岡本茂右衛門二男)
4、傳次郎(養子 実・平井氏)
5、次右衛門(初・百太郎) 百五十石 御番方六番組御小姓組一番 屋敷・京町
6、傳兵衛 寛政九年四月:本庄傳兵衛在宅年限内、浦御番ニ被指越、当四月引替
罷帰候付、又々当年世路七ヶ年在宅願
(熊本市史資料編第三編p256在宅願頭書)
7、次右衛門 百五十石
8、久右衛門 旧知百五十石
9、岩之助(傳兵衛・源次) 嶋田四郎右衛門組御番方三番 百五十石
細川斎護公御書出(弘化四年)百石
○ 本庄次左衛門 供之者・御扈従与也 百五十石 (於豊前小倉御侍帳)
清田石見組 百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)・・次右衛門
○ 本庄長蔵 御扶持方取 四人 (於豊前小倉御侍帳)
○ 本庄惣三郎 御扶持方取 三人 (於豊前小倉御侍帳)
○ 本庄宅助 御扶持方取 三人 (於豊前小倉御侍帳)
○ 本庄喜右衛門 切米人数 十五石五人 (於豊前小倉御侍帳)
○ 本庄庄助 切米人数 二十五石三人 (於豊前小倉御侍帳)
○ 本庄三十郎 御馬廻衆 百五十石 (肥後御入国宿割帳)
○ 本庄三郎兵衛 十二番牧平左衛門組 百五十石 (真源院様御代御侍名附)
百五十石 (真源院様御代御侍免撫帳)
○ 本庄角丞(浅) 御小児性衆 (真源院様御代御侍名附)
○ 本庄四郎兵衛 沢村宇右衛門組 二百五十石 (三十挺)添頭 (寛文四年六月・御侍帳)
二百五十石 寛文九年十月七日 御暇 (※)
屋敷:新熊本市史・地図編T-28(山崎之絵図)p60 現・肥後銀行本店あたり
■ 本田順蔵 (南東9-27)
加藤小平太
与左衛門
伝兵衛
本田伊右衛門
1、 順右衛門
2、 兵右衛門
3、 豊次郎(順蔵)
4、 元蔵(順蔵) (1)御小姓役 百石
(2)組付御中小姓・横山藤左衛門組 廿石五人扶持
■ 本間寛太 (南東53-36)
1、十郎兵衛
2、忠兵衛
3、九郎左衛門・正森(養子 実・弟 初・百助)
(1)三百石 御番方二番組御小姓組六番同与脇 屋敷・一丁目
(2)歩御使番頭 三百石
4、十郎兵衛 御小姓与三番組脇 三百石 宝暦四戌七月二十三日
5、左近右衛門
6、軍記(左近右衛門)
7、忠助 (1)三百石当時二百石 (2)御昇副頭、御中老支配 二百石
細川斎樹項御書出(文化九年)二百石
本間忠助 名は素當、忠助と称す。藩に仕へ歩頭使番、江戸留守居役を勤む。
食禄二百石。又和歌を善せり。
天保十二年正月八日没す。享年五十六。墓は横手北岡長国寺。
8、治兵衛(寛太・樋口定) 御物頭列御小姓 二百石
元治元年九月〜慶応二年八月 阿蘇南郷郡代
慶応二年八月〜慶応三年二月 野津原鶴崎郡代
慶応三年十二月〜明治二年二月 奉行副役
明治二年二月三日〜明治二年二月** 奉行
樋口 定 名は素隆、初め本間治兵衛と称し後樋口定と改む。藩に仕へ禄二百石
奉行、監察等を勤む。維新後は侯爵細川家家扶監事等を委嘱せらる。
明治二十三年三月没す。墓は高麗門長国寺。
○ 本間平四郎 御詰衆・二番曽我三郎兵衛組 三百石 (御侍帳・元禄五年比カ)