八代郡誌・郷土史メモより

   ● その1 杉本院養清法印
 八代地方では、「杉本院と云えば雷、雷といえば杉本院」といろんな話が今日まで伝承されたいます。
杉本院は寛永九年(1632)細川忠利公が肥後国封の節、三斎公の強い請いに従って八代に来住、八代城東
の鬼門畳櫓の門外、白雲山医王寺を寺領三百石、熊本神護寺同格として賜りました。

 彼は幼少のころから極めて霊力に優れ、一生の間に大峯に入峯して修行すること十七回、その名声は諸国
まで知れわたっていました。彼は寛永十六年、三斎公より再び請いを請け、医王寺には弟子智徳院を看坊と
して佐敷平等寺(後日杉本院と改む)再興の為佐敷に住しました。
 
 寛文二年(1662)松井寄之公が城主になられた翌年、三斎公や興長公の意思に逆いて、突然医王寺を没収
し、その跡に家老角田氏を入れ沙門を軽視しました。これによって杉本院多年の尽力は水泡に帰し、杉本印
の面目は丸潰れとなりました。その上にこの角田屋敷(旧医王寺)において智徳院と角田伊左衛門父子との
間に論磋が起こりました。この争いは沙門に対する重大な事件でありました。

 杉本院は沙門の尊厳を守ると共に主君への災難が及ぶことをおそれ、自己の生命をささげて事件を穏便に
解決しようと死力を尽くして事に当たりましたが、事毎に番頭(家司)山本源五左衛門の奸作にあって失敗しま
した。杉本院は自分の誠意を踏みにじり、その上当局の沙門軽視を深く恨み憤懣やる方なく、遂に禅定院にて
切腹しました。時に寛文三年(1663)二月十七日でありました。弟禅定院夫婦もまた同日切腹して殉死、智徳
院も後日殉死しました。然るに杉本院は三日後蘇生し、不動尊を安置して自分の腸を掴み出しては不動尊に
供え、呪文を唱えては何かを念じていました。その姿は鬼神のようで不動明王に似ていたといいます。かくてこ
の行は角田親子が切腹を命ぜられ、その生害が杉本院に報告されるまで九十一日間続き、五月十八日遷化
しました。これは当時八代城下の大事件でありました。城下の人々は杉本院の怨念を大変恐れました。

   ● その2
 その後松井家には何かと不幸が続きました。人々は杉本院の祟りであると噂しました。松井家では杉本院の
怨念消滅を祈願され袋小路に医王寺を再建になり、杉本印の霊をお慰めになりました。

 然るに寛文十一年(1671)山本源五左衛門が「またまた山伏が」と刀に手をかけたまま悶死しました。
翌十二年には八代城に落雷ががあって、天守閣をはじめ櫓、火薬庫及び武器庫も焼失し死傷者も沢山出まし
た。それが杉本院の蘇生から十年目の二月十九日に当たっていましたので、城下は恐怖のどん底におちい
り、杉本院の祟りと深く信じて噂しました。その後も松井家の菩提寺である泰巌寺への落雷や天守閣への落
雷など雷難が続きましたので、杉本院の祟りの噂は益々盛んになりました。
松井家においても寿之公の持病痛や御不幸が多発、よって正徳四年(1714)に杉本院と禅定院夫婦を三霊神
として般若院内に小社を建立して祀られ、その霊をお慰めになりましたが、その後年月の経過とともに権現堂
が大破し、その修理もされずにおられたところ又々松井家に不幸が続きました。
そこで般若院常行坊に頼んで寄りを修行されて杉本院の怨念をただされました処、
「不信人であればいつまでも不幸があって七世迄も取り潰すであろう。西の方に雷鳴があったら何かおこる事
があると心得て夢にも信心を怠らないように・・・・・」 とありました。

 松井家では元文二年(1737)般若院内に権現堂を御再建され、その上法華経千部を誦読させ、佐敷の杉本
院も御改造になって、元文三年の元日に遷宮なされ、清瀧大権現とお祀りになりました。
その後文化六年(1809)には禅定院夫婦と智徳院を三霊枝として般若院内に清瀧宮同殿として神として御勧
進になりました。以後毎正、五、九月には清瀧宮に十八日不動護摩、三霊枝には十七日不動花水を供えて修
行になり、明治初期の改革まで松井家においてご供養になりました。

   ● その3
 昭和三十八年(1963)八月十四日には八代地方に集中豪雨があって、古麓蜜柑山に山津波が起こって山本
の一家七人、一人残らず鰾谷に押し流され山本家は断絶しました。これは杉本院の遷化より三百年にあたり
ますので杉本院の祟りであろうと噂されました。尚、淵原町善正寺には「火難守護仕」という杉本院の血書が
寺宝として残っています。これは杉本院が切腹蘇生したとき、善正寺二世慶讃和尚が聞きつけお見舞いに来
られた時、杉本院は大変喜んで、記念の形見として自分のハラワタを以って書いて渡されたものであります。
(追記)
 佐敷杉本院は御造営より二百五十年の歳月を経過。荒廃甚だしかった処、昭和六十一年一月六日火災の
為全焼しました。しかし御神体にはまったく異常はありませんでした。同年十二月七日以前にもまして立派な
社殿が建立され、遷宮式が挙行されました。

               
                   杉本院血書「火難守護仕 善正精舎・杉本院」
 
    ● 杉本院雑記・その1
 寛文3年2月16日朝、杉本院登城の件については、別の記述をした古文書があります「

「・・・・・・明委細都合七通迄上達に相成り申し候得共一切取り揚げ無く 剩へ(あまつさえ)十七日の上達杯は
 山本源五左衛門へ 御城らんかん橋上登渉に付 直に相渡し申し候処被見も致さず堀の中へ投げ込み申し
たる由・・・・・・」杉本院はそれを見て心良からず思ったが、ここで事を荒立ててはと、踵を返したとあります。

 十七日朝とありますが、現立院が杉本院と禅定院夫婦が切腹自害しているのを発見して驚愕したのが、十
七日の正午過ぎ。そのことは禅定院隣家の田中市兵衛によって確認されていますから、登城するのはその前
日の十六日でなくてはなりません。
それはともかく、山本と大手門前の欄干橋で会ったとする文書は、杉本院T家の文書だけのようですが、この
話はどうした訳か、戦後発表された杉本院関係の話には、尾ひれがついた形で書かれています。
杉本院事件の主因を山本のせいにして、松井家への焦点をボカスのには都合のよい脚色かも知れませんが
それにしても何故杉本院T家の文書にあるのか、わからないでいます。

    ● 杉本院雑記・その2
 禅定院二世の「蘇生記」と杉本院T家文書に共通して書かれているのに触れなかったことがあります。

 杉本院が寛文3年2月3日に佐敷を出発し、日奈久(現日奈久町・温泉地)の手前の州口から海路を八代入
りしたのでしたが、それには理由があったのでした。
日奈久弁天社の勝善院が、
「町には山本源五衛門の命を受けた侍(足軽)が五六人、支障の八代入りを阻止すべく、この正月から待ち受
けています」と告げたからです。
杉本院は、松井家に対しては口上書に窺えるように、城主がいきさつを知ったら必ず善処されるに違いないと
思っていたのでした。権力を握っている山本の驕りと、それにへつらう武士団の仕打ちに対して、かくなる上は
死んで生きるしか道はないと、切腹したと云えます。
思いがけず蘇生してみると、喪禅定院夫妻が切腹自害し、つまりは智徳院までも切腹したというのに、事件の
首魁である山本には何のお咎めもないばかりか、新医王寺までも没収破却した松井家の処置に対して、改め
て松井家に対しての怨念が、勃然と生じてきたといえます。
杉本院は修験宗ですが、なぜか法華経を好んだと伝えられています。
蘇生後91日の間、法華経と仁王経を日々三部読誦したというのもそうですが、清瀧権現堂建立由来には
「・・・光華院(寄之曾孫豊之室)様御早世遊ばされ候につき遠山西堂(松井城主の叔父カ)も殊の外お気の毒
に存知奉られ、杉本院を権現と勧進なされる迄にては何れ怨念絶え申すまじく 仏果を得られ候はば自ずら邪
心失せ申すべく候 杉本院平生法華経読誦の由承りおよび候らえばとて天台宗の僧を招き密々に因紅庵に
一両年も留め置き、法華経千部の読誦を仕られ願文もおさめられ・・・・・」 とあります。
法頭の醍醐寺が知らぬふりし続けたことを不満に思っていた佐敷杉本院T家は、修験道廃止令と神仏分離令
がでると神道に鞍替えすると同時に日蓮宗に宗旨替えしたとのことです。

    ● 杉本院雑記・その3
 松井家が、杉本院の怨念を鎮める為に青龍権現に勧進して祀るようになって以来、いつしか清瀧権現の文
字が使われて来ましたが、清瀧権現とは本来女神で、唐の長安は青龍寺に祭られていたのを空海が高野山
に勧進したのが最初で、現在は醍醐寺の守護神とされています。法華経の善女竜王はその別称だそうです。
杉本院とはまったく関係ありません。

 杉本院を清瀧権現としたのは、荒神町の般若院の大阿闍梨常行法印が、松井家の依頼により依り(魂寄
せ)を行ったとき、杉本院が「清瀧権現として祀るなら松井家の守護神になるであろう」と云ったからとありま
す。その棟札には
 ・・・・・霊託曰號青龍権現誓約長修護摩則鎮守城中也遂建祠於城西・・・・・・・
  
     霊託曰く、青龍権現と号す。長く護摩を修すれば、則ち城中の鎮守たるを制約するなり。
     ここに於いて、遂に城西に祠を建つ。

 杉本印の意思だったとも、常行坊など岩本院配下の山伏が杉本院を見殺しにしたことに対する反発が、潜
在意識として現れた結果だろうと解釈することもできないわけではありませんが、この棟札には清瀧の文字は
使われていません。ちなみに杉本院T家の文書には、西瀧権現とあります。八代市荒神町のお堂も佐敷のそ
れも、げんざいではともに清瀧という文字が使われています。

           
                  般若院と清瀧大権現 (八代市荒神町)

    ● 杉本院雑記・その4
 大阿闍梨般若院常行法印が、松井家に依頼を受けて行った寄り(憑り祈祷)の詳細が、権現堂建立由緒に
書写されています。霊を呼び出す常行坊と霊を乗り移らせる憑座(ノリクラ=霊媒)と、その霊に問答する信念
坊(常行坊の師匠で小川町守山神社の社司)の三名が、松井家の用人である上原茂次郎(120石)川原助
兵衛(100石)の立会いのもとで、祐筆の高橋善助を書き役として、守山神社で祈祷を続け七日目に、杉本
院の霊が憑座に現れ出たとあります。

 両手に持った御幣を打ち振り打ち振り、体をそらせるや「杉本院」と名乗り
『其の方共は何故に我らを呼び候や 我等は今大峯の傍らに夭部と成り居り申す処に(居るのに不躾に呼
んだりして)近頃慮外千万の由 大音にてお咎め御座候に付 信念坊平伏仕り候て・・・・・』

 以降にその次第が記されていたのですが、この記事を見たとき何と品の悪いこと、それに夭部にいるなど、
いかにも怪しげではないかと思ってしまったものでした。建立由緒を見た翌年、修験関係の方から、御幣を振
りながら体を反らせるのが山伏の依り祈祷の特徴であると聞き、またここで云う「夭部」とは若々しい花木の茂
れる場所のことだと教えられ、認識を新たにして、問答次第を読み直しました。すると次のような文章がクロー
ズアップされて来たのでした。

『・・・帯刀(城主松井帯刀=寄之の孫)は大の無信心者にて候 随分信心を凝らすにおいては子孫繁栄すへし
行く末良かるへし 左無くにおいては いよいよ祟り申すへく にくき事海山程うらみ有り 根を絶やす思いすれ
と 今日の行者に対し差し許し候 今日よりは彼の人 何の障りもなく今宵より気分よかるへし (我は)思いの
外けっこう清浄な所へかえり帰って子孫の長久を守らん 我身においては何の望みもこれなく・・・・・』

 この頃帯刀は、頭痛か気鬱かで苦しんでいたらしいことがわかります。同時に杉本院が、恨み腹切ったにも
かかわらず思いがけない結構な処に住んでいるが、そこへ帰って子孫の長久を守ることにするが、それ以外
に自分には何の望みもないと云っていたのでした。また別の箇所には、災いをもたらしたのは眷属の仕業であ
ろう。以後障りをしないように申し渡しておくとも云っていたのです。それが松井家にはなぜか
「・・・松井のお家の守神のお成り下され候様にと精魂を尽くし祈り申され候処 清瀧権現と崇め候様にとのこと
 にて・・・・・」 と報告されていたのです。

              
                       芦北町(旧佐敷)清瀧神社

     ● 杉本院雑記・その5
 有馬の変(天草・島原の乱)が収束したのは、寛永15年(1638)2月28日です。
細川家の記録によれば、その前日27日の七つ(午後四時)には、二の丸・三の丸を占領していて、一旦引き
揚げの命令が出た酉ノ刻(午後六時)には本丸にも火の手が上がっていて、すでに落城寸前でした。
暗さによる同士討ちなどの無駄な犠牲を避けるために本陣への引揚命だ出されたのでしたが、「このような時
は得てして夜襲を受けるものである。警戒を厳重にせよ」との厳命で、本陣の前面に二重の柵を設置し、不寝
番の警戒隊を置き、厳重にしたため夜襲はなかったと記録されその隊長の名も記されています。

 杉本院T家の文書(杉本院記)には、それに反する事が書かれています。
「・・・・・忠利公お側近く相詰め居り候処 二月二十七日夕 賊多人数本陣近く駆け来たり候に付 お側の御人
 数も立ち向われ 本寿院儀も御長刀(薙刀)を以て賊大勢に馳せ向かい十七人迄薙ぎ伏せ或は手負せるに
 付皆逃げ去り申し候由 其の後 御本陣に於いて忠利公は『三十歳余りの士分は知る段 修験の身分にし
 て殊更に未だ二十一歳にしての働き希成り』 と仰せ出され・・・・・・」

 杉本院記を書いた仲光斤楓は、隈部親元の弟親房を家祖として、細川家に500石で仕えた仲光家の分家
の一つで、肥後藩の右筆だった人です。斤楓の娘が八世杉本院にとついでおり、その舅である前杉本院の葬
儀に出席したおり、婿杉本院の依頼で書いたと後書きしています。
『此の一冊愚生若き時の(婿の)家柄しら編にて記録所に相勤め候砌り 密かに写し置き侍りしを(文書がない
と)お明(ナゲキ)につき いよいよ以て記して仕るかなと(お頼みを)お断り申さず候
    写敷とも跡みしくきの誤りを老いのしわざと許し給へよ  七十三夏 斤楓老生 』

     ● 芦北郡誌から
 
   【杉本院雷となる】 葦北郡誌(熊本県)132頁
 杉本院は京都三宝院の派下、江州飯道寺下岩下院の末寺である。開組は不明であるけれども、一説には
高倉天皇の承安二年八月十八日、小松内府平重盛が再興したので、其の頃は現今の新町から谷付近には、
沢山の堂塔雑舎があって、西の高野と云われていたが、天象十六年小西行長のために焼かれてしまった。
寛永十年細川氏入国と共に、細川氏に重く尊敬せられていた山伏が来てこの寺を再興した。
この山伏の名が所謂杉本院である。杉本院は元京都に居たが、細川氏に見出されて、細川氏と共に丹後宮
津に行き、細川氏が小倉城主となるとしたがって小倉に来、又肥後に転封せられた時もついて来たので、杉本
院がいかに細川氏に信用あったかもわかる。従って非常な威勢の強かった者で、葦北全部を勧進して歩くこと
を、細川氏から許されて歌の出、勧進に行った時も門口に立って大声で「杉本院」といふと、どの家でも平身低
頭して品物を献上したといふ。
 さて八代鷹匠小路に善城院という杉本院の出張所の説教所を造ったが、丁度その隣が松井氏の家来の家
であって、或る時屋敷の境もめして松井氏に訴え出でて、裁判をしてもらった。この裁判がずいぶん長くかかっ
たので、杉本院は八代へ行っていたことが多かったのだろう。或る日杉本院が一斗二升入りのほら貝をからっ
て八代の町を通っていたら、町の者が「あの僧さんはあんな小さい身体で、あんな大きなのが吹けるのだろう
か。」すると一人が曰く「ひとみせたい」と、之が杉本院に聞こえたので、前の裁判のこともあるので、余程尺に
さわったと見へて、その大ほら貝を町の真中で精いっぱい吹いたので、大変、棚の茶碗が落ちて破れる植木
鉢が倒れる、屋根の瓦が落ちたといふから、余程なったことだろう。長い月日の後松井氏は不公平にも、自分
の家来の勝ちと判決を下したので、杉本院は憤慨に堪えずして、直ちに切腹して腸をつかみ出し、芹を腹に詰
め二反の白木綿で腹をまいて、一週間生きていた。一週間の後松井氏の屋敷の方を向き、目を怒らし「七代
たたってやるから覚えて居れ、西に一つ雷が鳴ったらおれと思へ」と云って死骸は天に舞い上がった。
その後まもなく八代城の天守閣は落雷して焼け、建築すれば又落雷し、或いは落雷して家を焼き、人を殺すこ
とが多い。そこで杉本院の霊を慰めるためか、松井氏は谷に精霊権現という堂を建てた。之が残っている堂で
ある。こんな事があってから以来八代の人々は、雷を恐ろしがるようになったといふ。
 杉本院の子孫は今竹内氏である。維新までは毎年四月一日から一週間男をつけて、別じょたいで高太郎
(杉本山)の頂上で、五穀豊作を祈るため、例のほら貝を夜となく昼となく、ぶうーぶうーぶうー吹いていたとい
う。その報酬として毎年一戸から麦二升宛献上。

     ● 前回の補足説明
 葦北郡誌の「杉本院雷となる」は、内容にかなりの錯誤があります。その最も大きなものが、禅定院を善城院
としていることはともかくも、杉本院の出張所にしていることです。これは事件当時、杉本院は医王寺の住職で
もあったのですが、その医王寺を没収破却され、また禅定院で切腹していたこともあって、月日を経るにつれ、
いつしかそのことが忘れられてしまったせいかもしれません。
 ほら貝を背負って市中を回ったというのは、佐敷に住いを移す以前の医王寺専従時代の寒行時のことでしょ
うが、ちなみにそのほら貝は三斎公から拝領したものでした。
 葦北郡誌に、医王寺のことが書かれていなかった今ひとつの理由としては、今は竹内氏とある杉本院竹内氏
が、佐敷では生活が出来ないと熊本市に転出(大正六年)していて、不在だったことが挙げられるようです。
云うなれば大正12年に編集された葦北郡誌は、それまでの伝説をまとめた物だったのです。
 葦北郡誌には、別の箇所にも杉本院のことが掲載されていますが、それは次回に掲載することにして、二世
禅定院についてここで少し触れてみます。

 禅定院宥静院夫婦が、杉本院の後を追って自害したとき、その遺児である後の二世禅定院宥清はそのとき
5歳だったのです。杉本院が智徳院の起こした騒動の始末をつけに佐敷から出て来た以後、家のことにかま
けなくなって、実弟の明言院夫妻に預けられたのでしたが、両親が自害したため、そのまま明言院で養育さ
れ、15歳のとき鷹辻天満宮に帰り、禅定院を告いだと禅定院守山家の古文書には記されています。
 ですが、杉本院の口伝によれば、二世禅定院は杉本院で養育され、初の大峯登山をすませ院号を名乗る資
格を得ると同時に、明言院に託されて、寺社奉行の了解を得て鷹辻に入り禅定院を継ぎました。また二世禅
定院本人かその妻が杉本院の孫にひとりであったとも伝えられています。
 その件につき故守山貞夫氏にお訊ねしたところ「家譜には明言院で養育されたとあります。祖母モツが七代
目杉本院の長女であったことは確かですが、それ以外の杉本院との嫁や婿のやり取りは記されていません」と
のご返事だったのです。禅定院に入った二世禅定院宥清は、三年後の18歳のとき、田中夫妻や明言院・現
立院など事件当時の関係者からの証言を元に「杉本院蘇生記」を書き表し門外不出としたのでした。
その蘇生記は、昭和20年代になって杉本院300年祭直前、初めてその存在が明らかにされたのでしたが、
拝見したおり杉本院に対する思慕や賛嘆の念の方が、両親に対するそれに勝るように思えて、一種の違和感
のようなものが残ったのでしたが、杉本院十三代目当主(富田林・光陽台在住 竹内氏 44歳)から、その事
をきいて、そうだったのかと得心がいったのでした。「杉本院蘇生記」の真偽について竹内氏は、「疑問は承知し
ています。しかし裏が取れないからと、子孫が否定するのも如何なものでしょうか。そのまま語り継いで行くしか
ないと思っています。ルーツについてもそうですが、将来その異説が真実だったとされる日がないとも限らないと
思っています」との答えでした。

     ● 葦北郡誌134頁
【平等寺谷町山杉本院
 真言山伏杉本院在居之杉本院は京都三宝院派江州飯道寺下岩下院の末寺也、開祖不分明云々。
或説、高倉帝承安二年八月十八日小松内府重盛公再興の傳來の小記あり、左に記す、寛永十八年本壽院
再興之本尊十一面観音也山に七峯ありと云。
『南膽部州芙桑中肥州之後葦北郡佐敷保有秘密伽之一闍則號谷町山平等寺杉本院西南北者高山巍々有七
峯故安置山王七社前東者流水湛々海浪出入誠美景不可勝計者欣然以不動明王爲伽藍以十一面観音彌陀
尊像爲本堂並弘法大師御影堂仁王門鐘樓等有之于時従一位小松内大臣平朝臣重盛右之伽藍等再興之志
不浅肆命金若遁一道榮則應命承安元年辛卯(1171)林鐘(6月)十三の地下着同の壬辰(1172)南呂(8月)
十八日出來畢末代爲證據書之者也』 (肥後国誌)今は廃寺となって、十一面観音 彌陀尊像並仁王は實照
寺(日蓮宗)に安置されてある。】

 杉本院竹内家文書は本寿院が杉本院跡地に初めて来たおり、棟札だけが残っていて、人皇三十代欽明天
皇の御宇に建立とあったと記していますが、口伝はニチラ上人開基と云われているそうです。

                               (完)