平成15年7月18日・熊本日日新聞「新生面」から

その少年の名は上田初彦という。熊本城下の山崎に住んでいた。数えで十四歳というからいまの中学一・二年だが彼の日記の一部を読んだ。といっても百六十年前のものだ。郷土史家鈴木喬さんが解説、熊本市史編纂室の研究雑誌「くまもと」に紹介している。

二百石の藩士の一人息子だ。百石以上を「青首侍」といった。昔の侍はよく学び、よく遊んでいる。いつも友達と連れ立ち、道場に通い、舟遊びをし、白川で泳いでいる。

二千石取りの大身の息子と仲がよく、そこの妹を伴い、蛍狩りに出かける。赤蛙を捕らえ、親戚の子に進呈する。子供の疳の薬になるといい、醤油で付け焼きして食べた。自然が豊かで、花見をしたり、漢詩を作っている。

住んでいる地区ごとに「連」をつくり、藩校時習館に集団登校し、藩校の休みには自宅回り持ちで集まり、論語の会読をした。郷党意識が強く、他の「連」と対立した。島崎連と集団けんかをし、味方の十四歳の少年が切り倒され、相手の十六歳の少年が家に帰り、切腹して果てるという大事件も起きている。

悪いのは「青首侍」の子弟がそろっていた山崎連の方で、悪態をつき、雨傘で散々殴っている。先に刀を抜いたのも切られた少年の方だ。初彦もその場におり、親が責任を取らされている。少年とはいえ、刀を帯びている。それを抜けば、どうなるのか、嫌というほど知らされたであろう。

後の上田休。京都留守居役に抜擢され、公武合体に奔走、「肥後の西郷」と呼ばれた。明治十年の西南戦争で鎮撫隊を組織、薩軍に与したと疑われ、死刑となっている。