“悲劇の偉材”上田 休

郷土史研究家 鈴木 喬

 天保元年(1830)二月十八日、物語の主人公は熊本城下山崎天神小路川端(熊本市桜町)の上田源十郎の嫡子として生れた。上田家はその祖忠左衛門が、細川忠興の代に小倉で召抱えられた、世禄二百石の家であった。初彦と名づけられたこの子は、七歳で学問の師につき、九歳で藩校時習館に入り、同時に碩学木下い村の薫陶を受けた。やがて学業大いに進み、四回も藩公から賞賜を受け、英才の名が高まったが、嘉永六年(1853)には軍学の師小畠景暢からも謙信流軍学の免許を受けている。

 安政三年(1856)、父源十郎の跡目を相続して久兵衛と名乗り、文久二年(1862)には軍学師役となり、藩主の弟たちにも講義を授けた。元治元年(1864)四月には御天守方支配頭となっていたが、同年七月、京都留守居役を命ぜられ、足高五百石を与えられた。このときから彼の政治的才能は一時に開花するのである

 ペリーの来航以来弱体化した幕府は、公武合体政策をとって政権の延命をはかっていたが、倒幕を藩是とする長州藩は、朝廷の若手公卿らと結んで幕府追落としに懸命になっていた。長州藩のあまりの激しさに疑念をもった薩摩藩は、会津・桑名等の諸藩と手をつなぎ、文久三年長州藩と若手公卿を京都から追放することに成功した。文久の政変とか七卿落ちと言われる事件である。この処置に不満をもった長州藩士らは翌元治元年七月大挙して都に迫り、皇居を守護する薩摩・会津・桑名ほかの諸藩と戦端を開いたため、朝敵として追討されることになった。この事件は禁門の変とも蛤御門の変とも呼ばれている。わが上田久兵衛が京都留守居役として上洛したのは、実にその直後の八月一日であった。

 熊本の細川藩はその昔から幕府と親しく、もちろん公武合体派であった。従って久兵衛は着京以来、朝廷と幕府間の斡旋に全力を傾けた。当時公武合体とは言いながら、朝廷と幕府の間には多くの溝があった。それらの難局を打開していこうとする政治家の一人に老中格小笠原長行がいたが、彼は前年から天皇の勅勘を蒙って謹慎中であった。この謹慎が解けるよう奔走する事が上田の第一の仕事となった。

 彼はまずその間の事情を調べて、将軍後見の役にあたる一橋慶喜からもう一度強く願い出れば見込みがあると考え、幕府方では京都所司代の松平容保(会津藩主)や一橋慶喜に、朝廷方では関白二条齋敬・六条有義の間を奔走して手続きを進めた。その結果、九月十六日に勅許がでたばかりではなく、翌日には小笠原長行は壱岐守に任官して公武の間に斡旋できることになった。この成功で肥後留守居役上田の名が一度に高まり、禁門の変で失態を演じた加賀藩は、上田に頼って名誉挽回を計りたいと頼んできたほどであった。

 次の問題は将軍の上京催促である。朝廷では七月に長州征伐を命じたのに、十一月になっても将軍は上京して来ない。会津藩主松平容保は将軍の上京を奨めるためにお許しを得て江戸へ向った。そこへ水戸の天狗党の事件がおこり、一橋慶喜もその鎮定のために都を離れることになった。朝廷では留守中の治安の維持が心配で仕方がない。またまた上田に相談が来る。上田は江戸から代わりの老中を上洛させることを提案して採用されたばかりでなく、勅書の草案の添削加筆まで命ぜられている。

 翌年四月、幕府は長州再征を諸大名に命令したが、その内容についてまたまた朝幕間の空気がおかしくなった。このときも上田の奔走によって両者のわだかまりは解消し、将軍家茂は上京参内して公武一和の実をあげた。以後も朝幕間の紛議がおこるたびに、上田の奇策と奔走によって治まってきたが、九月には兵庫開港をめぐって、朝廷は安部・松前両老中を勅勘処分にしたため、将軍が辞表を提出して江戸へ帰ろうとする大事件が発生した。一橋・会津・桑名は必死にこれを止めようとするが収まらず、遂に上田の救援を求めた。このときも上田が血誠を披瀝したことでようやく将軍は東歸を見合わせた。上田はこのあと朝廷の条約勅許に関する会議に出席し、横浜開港のやむを得ぬことを述べて同意を得、ついで将軍の参内を成功させている。こうして上田は細川藩の一家臣でありながら、皇族・公卿・殿上人および将軍後見・京都所司代・老中・大目付などの大名連を周旋して、幾度となく公武間の危機の回避に成功し、京坂における立役者となった。世上では「上田は加賀藩から娘をもらってくれとか、関白から養子をやろうなどの話があり、幕府からも三万俵の手当てが出るそうだ」などと噂したという。

 同じ慶應元年十一月には藩より帰国の命があったが、幕府の召命があって出発できず、年末の二十日にようやく帰藩し、川尻町奉行に任ぜられた。その役は足高三百石である。彼が川尻町奉行であったのは丸二年とちょっとであったが、その間に老人をいたわって祝寿の品を贈り、緑川筋の洪水に際しては堤防決潰個所の復旧に自ら出動して激励するとともに、徹夜で部下とともに警戒に当たった。町役人達を年一回は招いて宴席を設け、その労をねぎらった。彼は信賞必罰を信条とし、「上田自身に不善があったら遠慮なく申し出てほしいが、他人の不善をみだりに口外してはならぬ。賞罰に不公平があったら速やかに申出よ。良民に害をなすような狡猾な悪人は決して許さない。また奉行所の役人の買物だけに値引きするようなことをせず、一般の貧しい人々にその心配りをしてくれれば、川尻の町はますます繁栄するであろう。」と訓示している。

 慶應四年(明治元年二月)、上田は藩の奉行副役兼用人に転じたが二・三転して年末には表御取次頭本役となり、翌二年には玉名郡代に命ぜられた。彼が郡代に任命されたことを聞いた川尻町奉行所の役人や町の面々は続々と別れを告げに来訪したので、彼はこれも教化が広くゆきわたった結果と喜んでいる。玉名郡代は二人制で、彼は北半を受持ち南関で事務をとった。八月頃にはもう上田の行政を謳歌する地元の声が熊本にまで聞こえている。しかし同三年、実学党の藩政改革により自然解職となったが、その夜の別離の宴では群吏達が声をあげて泣いたという。上田はこのように至る処で人心を得、学校党の重鎮として、また良吏としての名をほしいままにした。

 野に下った上田は名を休(やすみ)と改め、旧領地の飽田郡半田村(熊本市城山半田町)に隠棲し、家塾を開いて門生を教導した。門生は藩士だけでなく、小城・日向・秋月・鶴崎や遠く名古屋からも入塾してきた。反対派の実学党主脳が、上田の事を「舊ニ依テ肥大豕ノ如ク、正ニ是レ天地間無用ノ人物也」と酷評したと聞いても、彼は「言い得て妙」と言って気にもとめず、かえってたわむれの詩をつくっている。

 明治十年二月西南戦争が勃発した。熊本城は包囲され、鎮台も県庁も閉じ込められて、全県下が無警察状態となった。とくに川尻は熊本に近い海陸の要衝で、薩軍の本営が置かれ、武装した党薩軍も次々到着し、物資の徴発・夫役の強制が行われた。その上戸長役場の職員は逃亡して脱監の囚人は我物顔に横行し、町民の不安は極点に達した。思いあまった川尻町民は米村金八をはじめとする数十人が半田を訪れ、上田の出馬を懇請した。上田の門弟や近在の士族達も去就に迷って半田を訪れたが、上田は「今回の事件は大久保と西郷の争いであるから決して巻き込まれてはならぬ」と自重を促している。

 慎重熟慮の末、二十六日門弟と長子勤を伴った休は川尻に赴き、保長らを集めて暫くの間町民の保護に当たることを告げ、銘々安堵して生業に励むよう布告した。町民はこれを聞いて歓呼の声をあげた。彼はまず薩軍首脳に対し、局外中立で鎮撫に当たることを告げ、旧支配所人民の困苦を見兼ねての処置であることを強調した。ついで車夫・人夫の賃金を定め、町民に不信感を持たれている旧役人に閉居を命じ、官金を確認し、町を巡回して平常通りの仕事につくよう諭して歩いた。

 彼の迅速な処置により川尻周辺は忽ち鎮静したので、周辺の銭塘・中牟田・木部・杉島・廻江・隈庄・甲佐・健宮などからも鎮撫の依頼が相つぎ、緑川の南北にわたる三里以内の地域は彼の庇護の下にあった。彼は避難した戸長や用懸を呼び戻してその後楯となり、各地方の治安の維持に当たったのである。戸長らの手に負えない兇徒は鎮撫隊の手で処置した。休の局外中立の立場を伝え聞いた士族達は、薩軍や熊本隊の参戦強制を避けるため、川尻に集って上田の鎮撫隊の印鑑を受け、その数は千七八百人にものぼった。これら士族が薩軍の戦力とならなかっただけでも彼の功績は大きいが、それは薩軍に味方する熊本隊にとって憤慨の種であり、上田を斬れとの声があったというのもうなずけることである。

 上田は政府軍の到来を待って川尻を引き渡すつもりであったが、四月十二・十三の両日川尻は戦闘の中心となり、上田の身に危険が及んだので半田に退いた。十四日の八代口征討総督府よりの調査、二十五日の警視出張所の訊問、二十五日の九州臨時裁判所での陳述でも、彼の鎮撫の実は認められ賞詞と証書を受けた。彼には全く己を顧みてやましい所はなかったのである。

 しかし事態は五月に入って急変した。彼は熊本の獄につながれること数か月、九月三十日の夜、家族にも報せずに斬られてしまった。罪状としては、「朝憲ヲ憚カラス、名ヲ鎮撫ニ假り、兵器ヲ弄シ衆ヲ聚メ其長トナリ、西郷隆盛・池邊吉十郎等ノ逆意ヲ佐ケ」とされているが、おそらく彼の業績と人望、それに今回も発揮された彼の威信と信望とが、当路者にとって、生かしておいては将来の禍根となるとの感を抱かせたためであろう。彼の死後百十年、今に至るも川尻近在では彼の名は救世主として記憶されている。

−完−