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灰燼(中)の三 (ページ3)

 

 豊前の国中津の城下より二里ばかり西南に離れて、某と云う山村の丘を負ひ細流に臨みてさ
 ながら城郭の如き一構へは、此邊きつての素封家上田久吾と云ふ人の居なり。
 屋敷内に当家のの祖先が植へしと云ふ大いなる楠樹あり、鬱蒼として緑深きことこゝに三百余
 年、郷士ながら旧藩主奥平家にても殆んど客分の待遇なり視と云ふ程の旧家。
 されば年々の蔵入も千俵に下らず、地券証文古金銀の類は幾棹の長持に溢れ、財宝蔵には古器
 物骨董類を初として、分けて書画には珍品多く或書画好の大官人が一見して眼を廻はせしと云
 ふ呉道子の楊柳観音、徽宗皇帝の極彩色百花百鳥の圖、東坡筆竹の自画讃、以下本家本元の支
 那にも得難き珍奇の書画数十帳は、此のみにても大した身代と、わざわざ東京より見に来し或
 有名の骨董家は溜息つきぬ。されば、石垣に百年の苔蒸して、幾棟の土蔵に巣くふ家鳩も心長
 閑に、黒瓦白壁参至として老楠の緑に映ずる其家を、村人は御屋敷と称へて「上田様には及び
 もないが、せめてなりたや殿様に」と常に歌ひぬ。
 當主久吾は今年四十七、若かりし時は頭に漢学腕を二刀流に固め、気象烈しき質なりしが、昨
 年来酒風症にて両脚の自由を失ひしより、めつきり気弱になりて、嗜好の川漁山猟も思ひ絶へ、
 唯春秋に駕籠つらせて、八里程隔たりし温泉に入湯する外は、大方寝所を出たることなし。
 奥様は名をお由どのと呼ばれて、今年四十二、瘠ぎすの色蒼ざめて、一寸見には恐そうなれど、
 実は虫も殺さぬ人の好き奥様。夫婦の間に、娘は無くて、學、猛、茂、と云う三人の男子あり。
 廿五、廿三、十八と云ふ年配。體格(がら)にかけては、総領の學は弟二人を一塊に捏ね攪ぜ
 てもやわか劣る可き偉大の骨柄ながら、さて肝要の物が足らねば、棟梁(むなぎ)にならぬ獨
 活(うど)の大木、雇人に侮られ、二人の弟には倒様(さかさま)に追い使はれて、何時か廃
 嫡同様の姿となりぬ。其に引かへ、次男の猛は、額凸くして眼凹み、一文字に結ぶ唇鐡てこも
 明け難き力あり。智慧の塊、意地の化物、睨めば穿ち、笑えば冰(こう)り、少なく言ひて、
 多く謀りぬ。趣味はまさしく父の正統をひいて、四書五経に育ち、果ては馬具にも西洋を忌め
 ば、髷も先年まで頭にのりて居たりき。季弟(すえ)の茂はまた之に引易へて、早くも学問の
 すゝめ自由の理さては東京の新聞に目を曝して、自由の権利の民権のと言ひ罵り、征韓論民撰
 議院論非大久保政府論など未だ乳臭き口に唱へて中津あたりの諸老先生を驚かし、果ては増田
 宗太郎と云ふ男を無二の師友と仰ぎて、年も行かぬに憂国三昧、とゞのつまりは去る四月一通
 の置手紙して増田を大将に血気の輩と南洲の軍に馳せ加はりぬ。されば兄弟三人、尤もよく食
 らうは學、謀るは猛、熱するは茂にて、空気と水と火とは名をば學、猛、茂とかへてこゝに上
 田の家に顕はれたりき。
 母は云ふまでもなく、父すらも冷刻なる猛を恐れ憚りて、自由民権の説に酔へる家産を治めざ
 る疎放極まる季弟(すえ)の茂を愛しぬ。
 嘗(かつ)て中津のさる歴々の家より茂を養嗣に貰ひしに、上田の家にては一議にも及ばず断
 りしより、偖(さて)は上田の家も行くいくは茂の有(もの)にならざるまでも少なくも二分
 せられて、両親は茂に倚るならむとは、何人も信じたりき。猛は深く茂を悪(にく)みぬ。
 
  上田の家より約一里ばかりして、以前(むかし)惣庄屋をも務めし園部と云ふは、上田の縁
 つゞき、主人は二人の子女を残して数年前に死去し、後夫(あといり)の子一人あり。
 茂が大の親友なりし長子は二年前に身没(みまか)りて、女お菊は今年十六になりぬ。
 其お菊が未だ八歳の昔なりしが、秋老(た)けて山の椎の実風なきにおちてこぼるゝ頃、上田
 の三兄弟は園部の家に招かれて、裏の小山に椎ひろいの遊をなしけるに、拾い終りて較ぶれば
 茂が嚢最(いと)少なきを気にして、お菊は密かに吾嚢のを移すを、其と気づきし兄の學
「やァい、茂のばかやァい、女に加勢して貰うばかやァい」と叫ぶに、満面朱を注ぎたる茂は突
 然兄に組みかゝりしに、七つ違の大力者に一も二もなく組み敷かれしを、お菊は口悔(くや)
 しく吾兄諸共學に武者振つけば、側に立つて見てありし猛は突然組み伏せられし茂が頭を蹴り
 ぬ。組んず、ほぐれず、泣きわめきのあとは双方に立分れて、學が
「やァい、茂と菊ちゃんは夫婦だつて、やァい」と叫ぶに、躍起となりて
「いいつてことよ、妾は茂さんのお嫁になるのよ。あなた見たいな馬鹿は厭だつてことよ」と
 お菊は健気に罵りかへしつ。其頃のお煙草盆は何時か銀杏返しにかはりて、匂ひこぼるゝ白菊
 の花の姿を、上田の三兄弟はとりどりに恋ひしが、中にも兄に親しき茂は妹にも近く、其兄逝
 きて茂が足やゝ遠くなりての後も妹は猶亡兄の友と思へるなり。猛はいよいよ茂を嫉くみぬ。
 悪(に)くみ、嫉(に)くみて、然も隠忍容易に鋒ぼう(ほうぼう)を露(あら)はさゞりけ
 る猛は、此春茂が萬のものを投げすてゝ南洲の軍に走れるに会ひて、莞爾として笑みぬ。
 待つ可きものは機会、馬鹿ばかしきは飛むで火に入る茂が身の上、何角と口賢しくは云ひ居り
 たれど、父上も母君も御覧ぜよ、親を棄て、家を棄てゝ首尾よく乱臣賊子となりたるは沙汰の
 限りの不埒者、此上は九分九厘まで戦場の骨とならずば刑場の露と消ゆ可き茂を何時まで惜し
 と思ひ玉ふぞ、彼は已に亡者(なきもの)、勘当されし不幸者、兄は彼通りの鈍物(のろま)
 此猛が斯くてあるのを上田の家の幸福と思ひて此れよりは此猛を柱とも杖とも主とも君とも思
 ひ玉へ、と云はむばかりに猛は猛然と鋒ぼうを露はし来りて、冷徹の手に悉く家柄を握りつ。
 最初は一度二度戦場より吾子の便もありけるが、其後は便のはつたり已(や)むで、薩軍の勢
 日々に蹙(せま)るを聞くに、茂が無事に帰り来可き望も漸く細く、去月城山没落の報を聞き
 ては、父は素より母までも今は世に亡き者と詮(あき)らめし様子に、猛は安堵の眉を舒(の)
 べつ。がつかり弱れる父母を思ふさまに説きつけて、戦争も済み世の中無事になりたれば、今
 迄延ばしゝ家督相続の披露を促がし、更にお菊の縁談をも始めしなりき。其家督相続の披露は
 愈明後日と事定まり、其縁談も漸く歩を進むる今日十月の十日と云ふに、忌める嫉める死せし
 と思へる茂は突然として帰り来れるなり。

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