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灰燼(中)の四 (ページ4)

「仕方がない、喃(なあ)お由」
 場所は上田の家の奥の奥なる八畳の離座敷、時は茂が帰りし翌日の夜十二時、言は黄金作りの
 大小鹿角の刀架に飾りし床の間を後に、蒲団敷かせて足さしのばし脇息に倚りたる小鬢の禿し
 四十六七の男の口より出たり。
 顧みられて、そばに坐れる婦人の顔愈々蒼うなりぬ。
「其れでは死にゝ帰つた様なものだね。どうしても助からないと云ふのかい、エ、猛?」
「先刻から申上げる通り、助けたいのは山々ですが、上田の家名が墜るか墜ちんの界です。
 上田の家から賊が出た、其は未だよろしい、其賊が討死もせずに帰つて来る、其を庇ふ、上田
 の家は賊になつたも同然ですぜ。世間の思はくを思つて御覧なさい。
 其は未だしも茂を隠匿(かくま)ふて其が発露(あらわ)れる----発露れずにや決して居ませ
 ん、最早村の者は皆知つています、どう僕婢(おとこおんな)の口を塞いだつて茂が帰つたこ
 とは最早皆知つています、だから先刻も園部の家から此家では却つて不都合なこともあらうか
 ら、自宅(うち)當分隠匿はうなんて云つて来たじやありませんか----茂を隠匿したことが発
 露れる、茂所か阿爺阿母までも罪になりますぞ。
 阿爺の其御不自由な體を巡査が来て縛つて、阿母が牢屋に入つて、私共迄が赤衣着て御覧なさ
 い、-----イヽエ決して無罪にやなりません。萬々一茂が懲役で済むにした処が、家名の汚れ
 は同一(おなじこと)。中津近在から五十人も賊が出て、一人も帰つて来た者はない、それに
 茂一人安閑として居つたらどんな評判が立ちますか、吾子が可愛いから、賊になつても討死も
 せずに阿容々々(おめおめ)帰つて来ても、役人や巡査に賄賂(まいない)して、隠匿(かく
 ま)つて置いた、なんて屹度言ひますぞ。こゝで思切つて、茂が潔く覚悟を決めたら、流石上
 田家は違つたもの、武士は違つたもの、賊には出ても見事に最後を遂げた、茂さんも感心じや
 が第一親御がよく思ひ切つた、どうしても武士は違う、と斯様(こう)言ふのは、見る様です。
 茂もなまじ巡査に縛られたり、人の物笑になつたりするよりも、親兄弟の前で潔く思ひ切つた
 方が本望---本望でございましょう。討死したと思つて、阿爺も阿母も御詮らめなさい。
 喃、學さん」
 顔見られて、堆(うずたか)き膝を弄りながらうつかりとなし居たる學は狼狽(うろたえ)て、
「其様(そう)とも、其様とも、彼様な馬鹿は生きてた処で------」
 顔見合はして大息つく父母の顔、熟と見て、猛は言葉に力を入れ
「御得心が参りましたか。阿爺も阿母も御異存はありませんな。御異存がなければ、直ぐ茂を
 此処へ-------」 「エ、今直ぐ?------」
 わなゝく母を尻眼にかけ、
「日が経てば、駄目ですぞ! 先刻も巡査が村の者に何か聞いて居たそうです、喃學さん」
「うん、其様だ、そうだ」 「でも----」
「阿母、懲役に行きなさつても、私は知りません」
「お由、詮らめるがええぞ」
「阿母、詮らめなさい」と鸚鵡がえしに學も口を添へつ。
「では、兄さん、貴下(あなた)茂を呼んで来なさい」
 猛がめくばせに「よし来た」とやおら身を起して出で去りしが、間もなく立返り
「猛、猛」
「兄さん、静かにしなさい。何だね?」
「茂はぐつすり寝とるぜ」
「寝て!」母は身を震はす。
「寝とる?起しなさい。何にも言はずに、唯連れて来るのだ、いいかね」
「何にも言はずに、唯つれて来るんだね。よし、来た」
 廊下を傳ふ足音次第に遠かりて、あとは森然(ひつそり)。
 三人が間に置ける行燈の光さながらこぼれる様に、泉水に落つる筧の水のみしやらしやらと
 響きぬ。

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