津々堂・電子図書館

灰燼(下)の一

  上田の茂さんが帰つた、お屋敷の茂旦那が帰つたと云ふ噂に一騒ぎしたる村は、程なく茂さ
 んが原切つた、何刺殺されたんだと騒ぎ合ひ、なあに其様な事云ひ触らして何処か遠方に隠匿
(かくま)ふのだと利口ぶる者もありしが、間もなくこつそり葬式も済みたるに、さてはと口を
 噤(つぐ)みつ。何処の里にも絶へぬ不平家が「金満家(かねもち)は幸福な者、謀反に加担(かた)つて
 帰(もど)つてきても、巡査も知らんかおで過す」とつぶやきし言葉は、やがて「金満家は嫌な者、子が帰
 つても庇ふ道は知らず、腹切らせて自分ばかり安閑として居る、金満家の子になるより乞食の子がまだ
 優(まし)じや」と云ふ囁にかはりて、抑え難き村の悪感は霧の如く「御屋敷」の周囲を立籠めたり。
 流石に其気はいを感じたる猛は、父を勧めて例の湯治に赴きつ。
 あとは奥様と學と僕婢ばかり、村の者も自ずから足を遠くし、奥様は始終鬱(ふさ)ぎ勝にて奥の間を出
 ず、學は毎日の様に川漁に出かけ、声高に言ふ者なければ「大きなる家ほど秋の夕哉」秋は偏(ひとへ)
 に此家にのみ哀をあつめて見へ来たり。

  十月十八日の朝は東の空夥しく焼けて、怪しく蒸暑く、昼ながら世の中ひつそりとして、木の葉もそよ
 がぬ静かさはたゞ事ならずと村人皆々眉をひそめて居たりしが、午もやゝ過ぎ、賛辞近しと思ふ頃、千百
 羽の大鷲翼揃へて飛び出で鹿と疑はるゝ物音颯然とと空に起りて、門田に積みし稲塚のさわさわさわと
 十四五間飛ぶよと思へば、瞬く間に暴風となりつ。
 吹きつゞけて夜に入れば勢いよいよ凄まじきに「御屋敷」の僕婢は台所に寄りこぞり、榾(ほた)したゝか
 にさしくべて、恐怖紛らす雑談。
「おゝ、吹く、吹く、おつぎさん、一寸外を見て見なさい、真闇!-----こわい晩じやねへか」
 鎌を磨ぎとぎ男の云へば、炉の邊に渋柿剥ける婢は身震ひし
「怖いと云へば、先刻奥に行燈持つて行たら、奥様が彼(あの)蒼い顔に斯様(こう)ずうとあけて、おつぎ、
 もつと此処に居て呉れないかつて云はつしやつたと思ひなさい、わたしや襟元がぞつとしたで、はい、要
 を済ませて直ぐ上りますて、逃げて来た。おちきさん、一寸行つて見な」
「おゝ嫌だ。-----大旦那も若旦那も御留守で、奥は淋しいね、あの學さんは居るけんど、----此風に高鼾
 で寝て居るだね、同じ兄弟でも猛旦那や茂-----南無阿弥陀仏----茂旦那も最早一七日だね、
 御可愛想に、南無阿弥陀仏------」
「茂旦那も御可愛想、彼(あの)お菊さんも可愛想じやねへか」
 と此方に藁をうち居りし老爺は口を挿(さしはさ)みぬ。
「本当に其様(そう)だよ。何でも昨日の甚兵衛さんの話じや、彼事(あのこと)を聞きなさつてから気が変に
 なつて、一昨日(おととい)も今些(もちつと)で咽突きなさる所だつたてね。其で夜昼御母(おふくろ)が番
 をして居なさるそうだよ」
「其様じやろ、そうじやろ。やつと甦(いきかへ)つて来なさると、直ぐ彼様(あう)云ふ事になる。
 気も違はうよ。猛旦那も----うゝ風が凪いだじやないか、----やあ、また吹き出したぞ」

(下)の二

天地の固唾を飲みし様に寂然(ひつそり)となりしと思へば、忽ちひょうと吹き破る暴風一陣、一簸(あおり)
 家を簸つて、戸障子がたがたとはためき、砂利か木の葉かばらばらと雨戸にうちつくる音、瓦の飛ぶ音、枝をもがるゝ老楠の悲鳴に和して、世は今にも盡(つ)きむかと危まれつ。
 隙漏る風行燈の火先を揺りて、とろとろと細り、消えなむとして、また明らかに燃え立つ奥の一間に、獨(ひとり)縫物してありし主婦のお由は、ふつと針をとゞめて耳傾けつ。立上つて、燈心かき立て、隔ての襖を引明けて、次の間を見廻せしが、また手早く旗と閉(た)て切り、坐に返つて縫物をとり上げぬ。
 五分ばかりたちて 「つぎ、つぎ-----學、居るかい!」
 呼ぶ声は徒(ただ)室内に渦まきて、答なければ、来る人もなく、戸障子のぐわたぐわたと鳴る響(おと)のみ
 聞こえり。
「如何(どう)したのだろう?----おゝひどい風----おや襖の外に居るのは誰? つぎかい」
 ぶるぶると身を震はし、指尺(ものさし)片手に立上つて再び襖を開きしが、またぴつしやり引たてつ。
 二たび燈心をかき立て、坐につかむとしてふと行燈に眼をとめ、さしよりて熟(じつ)と覗き、指尖(ゆびさき)
 に摩(な)で試み
「あゝ油のしみだつた。左様(そう)そう、彼(あれ)は張替たのだから、残つて居る筈はない。
 何て暗い行燈だろう!」 三たび立つて、燈心をかき立てつ。
「おゝひどい風----おや、障子の側に居るのは誰? おや、わたしが影だつた、ほほゝゝゝゝ-----
 おや、誰だ、誰だ、今笑つたのは? つぎ、つぎ、學、誰か来てお呉れ、早く早く早く-----
 誰か来てお呉れ」
 大声に呼ぶと思ひし口はたゞ徒(いたずら)に動きて、人来る気勢(けはい)もなきに、恐怖に溶(とろ)けし眼
 の中ちらちらと身悶へして起きつ座つ。
「おや、行燈の向ふに誰か居る。つぎかい、學?------おや茂だ、茂、茂、堪忍してお呉れ、堪忍して----」
 突と起上つて、行燈の周囲(まわり)を彼方に逃れ、此方に避け
「-----悪かつた。わたしが悪かつた。茂、堪忍してお呉れ。茂、茂、茂----最早(もう)其様(そん)な顔をせ
 ずに---おゝ、怖い、怖い---何、何、何 『阿母あなたも』ッて? おゝ『阿母、あなたも』 『阿母、あなたも』
 -----尤もじや、悪かつた、母が悪かつた、皆わたしが悪かつた----おゝ闇い、闇い、闇い! 茂が追つて
 来る、助けて、助けて-----」
 叫びさけび走せまわる。はずみに袂は行燈にかゝりて横になれば、火は爆(ぼっ)と燃へ立つて、忽ちにうつ
 る障子。白紙を舐むる紅の舌ちょろちょろと瞬く間に燃え広がりて、赫々と照り渡つたる一室の内。
 恍惚(うつとり)と眺めたる母は、忽ち手を拍つて
「ほゝゝゝ、明るい、明るい。茂、茂、茂、最早(もう)堪忍してお呉れか。
 何、未だ『阿母、あなたも』ッて?よ、よ。
 堪忍してお呉れ、阿母が乳呑むだ昔の茂になつてお呉れ。ほゝゝゝ、明るい、明るい。
 さ、茂、爆竹(どんどや)をしましよう、爆竹を」
 手近にありし裁縫物(したてもの)、紙と云はず、糸と云はず、掴むでは投げ、掴むでは投げ、手を拍つて嬉々
 と笑う。折から家を憾(うご)かす烈風一陣、雨戸を吹き払とて颯と煽れば、灰散り火飛むで、障子天井畳襖の
 嫌なく烈々と燃え上りぬ。

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