-2/7-
     

    ◎ 正徳年間 1711年〜1715年
      (豊之家督 正徳四年〜明和三年1766年)
 
 【井上家】白井次右衛門二男嘉平太が養子に入ります。その時当主治部右衛門正信には、
  二男井上角兵衛正紹がいました。角兵衛正紹が相続してもよさそうなものですが、養子
  縁組を仰せ付かっています。ただし、角兵衛には新知百五十石が下され別家が立てられ
  ます。井上仙太夫家です。角兵衛の三男が木本に養子に入って木本所兵衛正名となりま
  す。井上、白井、木本の親戚縁故ができました。

  【本島家】 沢井清右衛門勝重二男弁七が養子に入り、本島一郎左衛門喜季と名乗ります。以降、
   養子縁組はありません。先に下津から養子が入っていますから、本島、沢井、下津の親戚関係
   が成立   します。沢井から真下、松井寄之、細川忠興と繋がります。

  【小沢家】 三上清兵衛能正二男半助が養子に入り、小沢五郎右衛門定義と名乗ります。小沢祖
   は、代々畠山家に仕え、河内高屋城主畠山高政没落後浪人、前川彦左衛門を頼って肥後へ着
   きます。八代では親戚の松井角兵衛を頼み、角兵衛取り持ちにより松井興長に仕えました。
   万治三年知行取りとなります。召抱えはそれ以前明暦の頃でしょうか。
    三上は、祖三上勘左衛門能信のとき豊後杵築で松井興長に召出されます。延宝年間清兵衛
   正儀二男が梶原に養子に入り、その後養子はありません。小沢、三上、梶原の親戚関係ができ
   ました。松井角兵衛とは、肥後入国以前からの親戚のようです。姻戚でしょうか。松井角兵衛は、
   松井(田中)志摩守盛永の嫡男角兵衛盛勝のことでしょう。文禄元年10歳で康之に召出されて、
   立石表、有馬陣に働きます。小沢、三上・梶原、田中(松井)が親戚です。

    ◎ 亨保年間 1716年〜1735年
      (豊之:明和三年1766年まで)
  
    下津に三度目の養子です。再度、沢井からですが、沢井太左衛門二男奥弥太が下津の名跡
   を相続します。沢井は小八郎重包のとき、嫡子治部右衛門重豊と二男清三郎正重と二家になっ
   ていますし、善太夫(清三郎)正重のとき二男弥五六へ七十石、三男清三郎に御擬作を仰せ付
   けられますので、太左衛門は八代の善太夫の系ではなく、嫡家か他の別家の人でしょうか。
   一度目は、沢井次右衛門重豊の二男ですから、熊本の嫡家からです。下津、志水、沢井の関
   係ができました。
    沢井先祖は、大和国真下郷を代々領知して足利家に仕えました。将軍義輝生害のとき沢井対
   馬守三郎元光が戦死します。遺子二人は成人後母の親戚丹後国弓木の一色氏に仕えます。
   兄を真下梶之助、弟を小八郎といいました。一色義有生害後真下兄弟は、細川忠興に仕えます。
   小八郎は忠興に従って、奥州会津表、岐阜城攻め、関が原、大坂陣と働きます。
   また、姉は細川寄之の母になります。寄之が松井興長の継嗣になったとき、沢井善太夫(清三
   郎)正重が八代にお供します。細川、松井、沢井、本島、下津、志水の関係が築かれました。
   元和七年(1621)のことです。

    西垣三度目の養子です。細川大和守家来河嶋清太夫二男億之助です。養父庄太夫政治の
   甥です。太右衛門と名乗ります。当代・先代とも養子ですが、先代は曽祖父の実子の子ですし、
   今回は甥です。太右衛門の母が庄太夫政治の娘でしょうか。あるいは倅が養子または婿養子
   でしょうか。いずれにしても血統は保たれています。
   西垣、今川、今井の親戚に河嶋が加わりました。

    木本も三度目の養子ですが、今回は婿養子です。堀半四郎といい木本佐左衛門と名乗りまし
   た。前二度の縁組からは、木本、中川、井上から松井、橋本、山口、堀とひろがつています。

    田中(松井)は、二度目の養子です。仲井武兵衛貞秀二男、松井半右衛門盛房と名乗ります。
   仲井武兵衛貞秀は元禄年中田中(松井)から仲井に養子に入った、田中(松井)又右衛門盛季
   の末子のことですから、田中の血脈は継続しているわけです。二度目之養子でも田中、仲井の
   関係は変わりません。

   【入江家】 坂井武助包好の三男が養子に入ります。入江三太夫です。入江先祖は代々足利家
   に仕え将軍家没落後浪人、丹後久美で松井康之に召出されます。久兵衛武澄です。美濃岐阜
   城攻めのとき討死します。入江、坂井の縁ができました。
    坂井武助先祖善左衛門宗寛は、代々江州佐々木家に仕え、佐々木家没落後加藤清正に仕え
   ました。朝鮮渡海のとき佐敷城留守居役。薩摩の祁当院(島津)歳久謀反、文禄元年出水城主
   梅北宮内左衛門数百騎で佐敷城に押寄せると、善太夫は梅北を討取り、肥前名護屋に対陣中
   の豊臣秀吉から感状をもらいます。名護屋城に呼ばれて褒美もいただきます。加増二千石です。
   加藤家改易後筑前黒田家に仕えますが立退いて、寛文八年沢村右衛門に召抱えられます。

   【大鳥家】 中西五三右衛門昌晴六男が養子に入り、大鳥八左衛門正陽と名乗ります。中西五
   三右衛門昌晴は堀口から中西に養子に入った堀口弥三郎浅之助です。大鳥、中西、堀口の親
   戚関係ができました。さらに、中西五三右衛門昌晴五男は堀口に養子に入ります。
    大鳥先祖は丹後久美で康之に召出されます。豊後杵築へお供し、大坂陣では杵築留守居役
   を仰せつかります。

   【田中弥次兵衛家】 宇野源七隆久五男が養子に入ります。弥次兵衛の曽祖父は松井志摩守
   盛永三男です。宇野源七隆久は瀬戸源七のことです。源七の二男は堤に養子に入った堤甚右
   衛門ですし、三男は宇野弥三右衛門一久、四男は宇野孫之允喬明です。田中弥次兵衛、堤、
   宇野三家が兄弟となりました。
 
   【工藤家】 武井長左衛門の弟尉助(平八・九郎次)が養子に入ります。先祖は正保四年松井寄
   之付志水又左衛門に召出されます。当初姓を久藤と表記しました。
   その後、阿部、工藤と改めます。

   【皆吉家】 坂井武助二男弁蔵が養子に入ります、入江に養子に入ったのが三男ですから、皆吉、
   入江は兄弟になりました。皆吉先祖は尾池藤左衛門に仕えていましたが、松井興長に所望され
   て慶安二年八代に召し寄せられます。皆吉、坂井、入江と縁ができました。

   【志水家】 渡瀬甚平昌勝二男文蔵が養子となり、志水左衛門元貞と名乗ります。渡瀬の祖は、
   松井(角田)七郎左衛門勝次二男十之進です。延宝七年新知百五十石拝領によります。
   ですから渡瀬は角田です。
    志水家先祖但馬守元久は山城国鳥羽の志水を領地し足利将軍家に仕えました。管領細川晴
   元の親戚として晴元幕下で働きます。晴元没後、嫡子新之允(伯耆清久入道宗加)と二男悪兵
   衛秀清が細川藤孝に召出されます。永禄十一年江州箕作城攻め、同十二年三好・松永党が京
   六条本圀寺に足利義昭を攻めたとき、桂川で奮戦し、悪兵衛は足利義昭から刀を拝領します。
    天正元年細川家が織田信長より山城国桂川を限る西地を領地して請けると、伯耆が志水村一
   円を知行し、悪兵衛も知行を拝領します。この頃、伯耆が細川忠興弟興元の後見役となりますが、
   丹後へ国替えのとき、興元は家老となり齟齬が生じ、志水兄弟は暇を願い出て立ち退きます。
   このとき悪兵衛は松井康之に召しだされて、帰参の世話方々客分として康之の下に召し直され
   ます。その後、忠興の元に帰らず、子供四人を召し寄せて康之に仕えます。親子で働きます。
   豊後杵築城請け取り、松井興長に従って岐阜城攻めに働いて、松井の称号を許されます。
   豊後立石表、有馬陣にも働きます。悪兵衛子加兵衛は松井掃部助秀通と名乗り、松井仁平次
   元常の娘を妻に迎えます。松井仁平次元常とは、角田仁平次と云い、兄は、松井半右衛門盛
   秀、父は角田宗伊、宗伊の妻は松井康之の姉です。そのまた姉が細川忠興の養父細川陸奥
   守輝経の妻です。仁平次元常の妻は荒木山城守行重の娘で、はじめ兄半左衛門盛秀に嫁ぎ
   ますが、半右衛門盛秀は伊勢亀山城攻めで討死、そのとき妊娠しています。兄嫁は仁平次に
   再嫁し、仁平次が家督を継ぎます。子供が生まれると康之は自分之名乗りの一字を下して采女
   康秀と名乗らせ一老とします。
    志水にはこれ以降養子はありません。渡瀬の祖、兵衛則次は本姓角田氏、父は松井七郎左
   衛門勝次、祖父は松井外記元勝です。志水、渡瀬、角田の縁ができ、角田から松井、細川とつ
   ながることになりました。下津同様、同じ山城国人領主であるとともに、藤孝草創の時代を支え
   た人々への、康之の思いが感じられます。下津には最初志水から養子が入りました。その後沢
   井から養子です。志水・渡瀬・角田、志水・下津・沢井の縁故関係もできました。また、松井外記
   元勝の四男が沢村大学養子沢村宇衛門ですし、松井七郎左衛門勝次の四男が八代の荒木の
   創めです。荒木丹右衛門益次と名乗ります。荒木の本姓は角田です。渡瀬、荒木の創めは兄弟
   でした。
   {采女康秀の嫡男半右衛門病死、二男助左衛門秀為家督千石一老召上げ、嫡男勘兵衛元秀
    相続、暇を願い出て父子とも立ち退き、熊本沢村家を頼り荒木氏に改めます}

   【後藤助太夫家】 西川伊兵衛二男庵が養子に入ります。後藤新兵衛真昌と名乗ります。
   西川伊織は、高瀬村府本に居住のとき松井寿之に召出されます。享保七年三月のことです。
   その九月には、助太夫へ用紙を仰せつかります。ところで、新兵衛真昌の養父小左衛門真秀の
   二男は平田へ養子に入っていますから、後藤、西川、平田の親戚関係ができたことになります。
   宝永七年六月には松井興長五十回忌が執り行われて、前もって長裃帷子、お香を拝領します。
   後藤(助)は興長殉死の家です。
    後藤先祖は、新兵衛真勝のとき豊後の木下右衛門太夫へ仕えます。身体不自由を理由に暇
   を願い出ますが、聞き入れられず、立ち退き、豊前へ松井興長を頼ります。木下右衛門太夫から
   興長へ差し返すように要請がありますが、興長は、頼られたからには返すわけにはいかないと、
   新兵衛真勝を召抱えてしまいます。木下右衛門太夫は細川忠興の妹婿です。

      ◎ 元文年間1736年〜1740年
         (寿之家督元禄五年1692年〜正徳四年1714年・豊之1714年〜1766年)
   
    仲井に本島市郎左衛門喜季三男が養子に入ります。本島には、正徳年間に沢井から養子が
   入っています。また、仲井には元禄年間に田中(松井)から養子が入っています。田中(松井)は、
   享保年間に仲井から養子を迎えています。

    村上に蓑田から二度目、二代続いての養子です。蓑田惣左衛門に養子に入った見崎弥兵衛
   元近の一男です。蓑田は二男が継いでいます。村上には元禄年間に浜田から養子が入ってい
   ますから、浜田、村上、蓑田の親戚となります。

    山本武右衛門に二度目の養子です。武右衛門家は山本源五左衛門に養子に入った見崎弥兵
   衛二男が別家となったものですから、山本の分家であると共に、見崎です。
    元文元年井上角兵衛正栄の三男が養子に入ります。井上角兵衛正栄は、松井牛右衛門の分
   家です。本家は、松井治部右衛門正信のとき嫡子・嫡孫と早世したため、熊本の白井から養子
   を迎えます。そのとき、治部右衛門正信の二男角兵衛が新知を拝領し、井上仙太夫家となります。
   血脈を絶やさないための処置でしょうか。山本・見崎、井上〜松井(井上)が親戚となりました。
   さらに、山口・橋本、後藤、木本と縁故は広がります。

    小沢に三上から二度目の養子です。三上清兵衛久遠の二男です。
   小沢市郎清遥と名乗ります。三上、小沢の縁です。

   【原家】 元文五年藤木嘉七二男が養子に入ります、原作太夫と名乗ります。原先祖、西原兵衛
   尉行光は天文年間筑後立花飛騨守に仕え、西原半右衛門のとき二男作太夫久矩が坂崎古清
   左衛門を頼りに肥後に来て、松井興長に召抱えられます。このとき姓を原と改めます。
   原、藤木が親戚になりました。

   【堀口家】 中西五三右衛門五男登五郎が養子に入ります。堀口先祖三渕伊賀守同姓親類山
   名藤広入道一雲齋は、将軍義輝に仕え、諱を拝領して藤広と名乗ったのですが、将軍家没落
   後浪人します。三渕伊賀守晴員は足利義満の裔です。細川藤孝の父です。
    山名藤広は、細川幽齋が薩摩島津氏の叛逆調停に向かった時お供に加わるものの、路次
   途中で病死します。その子堀口喜六光弘は、丹後久美で松井康之に召抱えられます。
    細川幽齋が丹後田辺城に篭城したとき、堀口喜六光弘は、宮津城の留守居を仰せつかって
   いました。このとき、宮津城の武器兵糧を全て田辺城に運び入れて働きます。次代の少右衛門
   恒広は、肥後加藤家改易の噂の真偽を探って働きます。有馬の陣で働き高名、松井外記と共
   に戦功を細川忠興に賞され、直臣にと所望されます。このことで、二人は、「武士は二君に仕え
   ず」と、討死を約束して原城本丸に前後して戦死します。中西五三右衛門は堀口から中西に養
   子に入った、堀口弥三郎浅之助です。堀口の血脈は保たれています。堀口、中西〜柴山が親
   戚関係です。

   【吉田家】 高野善左衛門二男平助が養子に入ります。元文元年に家督を相続しますので、養
   子はそれ以前享保年中のことでしょうか。吉田先祖は、武蔵国平子党ですが子孫は中国の大
   内家に仕え、大内没落後子孫は稲葉家に仕えます。しかし慶長年間稲葉右京亮も浪人、平子
   主膳貞詮・茂兵衛貞仲親子は大坂の陣で真田幸村と共に大阪城に篭城し、戦闘で稲葉右京
   亮と共に討死します。平子主膳貞詮・茂兵衛貞仲親子の討死は六代に渡る討死で、このことは
   徳川方にも知れていました。徳川方も鄭重に敵将の首を埋葬します。
    その後、主膳の末子が浪人、母方の姓吉田を名乗った末孫吉田助市矩通のとき松井直之に
   仕えます。書道に優れ、細川幽齋の著書を書写します。
    高野は、土岐氏の裔で代々美濃国高野を領地していました。高野藤蔵光清が織田信長に仕
   えますが、信長生害後美濃国大垣に居住、後、慶長五年豊後小倉に下って浪人、杵築で松井
   興長に召出されます。有馬陣で働きます。吉田、高野の縁ができました。

   【増田家】 有馬喜左衛門一子が養子に入り、増田市之丞と名乗ります。増田先祖惣兵衛は宮
   本武蔵の弟子でした。武蔵末期の病のとき松井寄之が武蔵を見舞いますが、そのとき寄之が
   「何か、申し残すことはないか」と訊ねます。このときの武蔵の遺言により惣兵衛は召出されます。
   以降増田に養子は有りません。
  
    後藤助太夫家に二度目の養子です。梶原三実二男又吉です。梶原三実は三上から梶原に
   養子に入った三上三実のことです。三上に養子はありません。後藤から平田への養子がありま
   すから、後藤、西川、三上・梶原、平田が親戚になりました。

   【坂井三郎右衛門家】 三上清兵衛久遠の三男が養子に入って、坂井三郎右衛門と名乗ります。
   坂井は、三上を通じて梶原、後藤、西川、平田と親戚縁故が広がりました。坂井先祖は、尾張
   国に居住し、織田彦五郎に仕え、清洲の守護代でした。坂井与左衛門一良は永禄十二年十七
   歳のとき、松井康之を慕って山城国勝龍寺城下にやってきます。織田信長、細川藤孝のもと、松
   井康之の将として三好党や野田・福島の要害攻めに奮戦します。石山本願寺との戦い、小牧城
   攻め、織田信長の比叡山焼き討ちには、山城国住山に出張した三好勢と戦い、上山城では松永
   久秀騎下の諸将立て篭もる山田城を攻め、さらに河内、摂津と転戦、石山本願寺合戦では木津
   表の苅田、堀溝城攻め、細川忠興初陣の片岡城攻めと、常に松井康之に従い軍功をあげます。
    康之糟糠の家臣と言えるのではないでしょうか。


      ◎ 延享年間1744年〜1747年
           (豊之1714年〜1766年)

   【荒木家】 堤又左衛門永栄二男弁五郎嘉平太が養子に入ります。堤又左衛門永栄は元禄年
   間養子に入った、宇野源七隆久二男のことです。宇野源七隆久とは瀬戸源七のことです。
   荒木氏は本氏角田ですから、瀬戸・宇野・堤、荒木(角田)と縁故が増えていきます。

    小沢に三度目の養子が、本島から入ります。この頃の本島は沢井・本島です。安永年間まで
   変わりません。享保・元文年間と二度三上からの養子でした。三上に養子はありません。
   小沢、三上〜梶原〜後藤、本島〜沢井と親戚縁故ができました。

    吉田に二度目の養子です。江見金右衛門二男庄蔵が吉田兵左衛門兼昌と名乗ります。寺見
   流の剣術に優れていました。江見先祖は江州佐々木氏です。建武のころ大友氏鎮西探題のと
   き肥後国合志を領地して居住し、合志を姓としました。合志甚之丞義方は黒田家に仕え、寛永
   年間立退いて、姓を江見と名乗り肥後国合志十郎左衛門養子となります。嫡子善兵衛重昌の
   とき、山口伝左衛門取次ぎにて松井興長に仕えます。吉田、高野、江見が親戚となりました。

       
      ◎ 寛永年間1748年〜1750年
           (豊之1714年〜1766年)
   
    田中(松井)に三度目の養子です。高野善右衛門常里二男が養子に入ります。松井清三と名
   乗ります。田中は、三宅、仲井、高野と親戚になります。

   【岡部家】 寛永二年宗幸太夫二男清之進が養子に入り、岡部喜太夫英虎と名乗ります。岡部
   先祖は東国浪人で宮本武蔵の弟子でした。増田同様、宮本武蔵の遺言により寄之に召抱えら
   れます。岡部と宗が親戚となりました。

    坂井八郎太夫家に二度目の養子です。最初と同じ上原から、安太夫貞徳二男嘉仙太が養子
   に入ります。坂井八郎太夫と名乗ります。上原、坂井の重なる縁です。
   

                   −1−へ       −3−へ