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    ◎ 宝暦年間 1751年〜1766年
      (豊之1714年〜1766年)

   下津に四度目の養子です。志水からです。はじめ志水悪兵衛元清二男半左衛門一安が
  養子になり、寛文年間二度目の養子が入ります。沢井次右衛門重豊二男です。下津丹左
  衛門一政と名乗ります。その後、享保年間に三度目の養子沢井太左衛門二男奥弥太が名跡
   相続をします。この頃の志水は渡瀬・志水ですから、下津、志水、沢井、細川・松井、渡瀬・志
   水、角田の縁故が築かれます

   【渡瀬家】 志水から養子です。宝暦六年、志水又左衛門元真三男が養子に入ります。
   志水には享保年間に渡瀬から養子が入って、渡瀬・志水です。時は過ぎていますが、養子が
   実家に帰ったようなものでしょう。渡瀬の本姓は角田です。すでに、これまでの養子縁組で、細
   川、松井、沢井、下津、志水という親戚関係が築かれています。

    山口に三度目の養子です。山本源太左衛門勝信入道撫石二男金太が名跡相続します。
   山口は、橋本奥左衛門二男山口彦之丞成定以来断絶していましたが、松井興長百年忌のた
   め復活したのです。興長に殉死の家だからです。山本・山口です。橋本の縁から井上(松井)
   に、山本弥左衛門金重の縁から竹田に繋がる縁もあります。山口・山本、竹田、橋本、井上、
   後藤、木本と縁故です。橋本も木本も殉死の家です。

    井上には、二度目の養子です。熊本の白井嘉平太が最初の養子でした。今度は熊本から
   田中吉左衛門政純二男万助を迎えることになりました。松井牛右衛門です。井上、白井、田中
   と親戚です。井上からは多くの縁故関係が発生します。井上、白井、田中の他に、山本、橋本、
   後藤(三)、山口、木本、山本(武)・見崎、中山、角田とそれぞれが親戚縁故で繋がっています。

    竹田にも二度目の養子です。京都留守居役安富十右衛門勝義二男卯三郎です。竹田仙左
   衛門定教と名乗ります。後松井織部と改めます。
   最初は延宝年間前川彦左衛門二男前川次助が養子婿に入ります。妻には養女にしていた、
   山本弥左衛門娘、松井角左衛門の孫娘を娶わせます。山本弥左右衛門金重とは山本源左衛
   門五男、後の山本源太左衛門金重のことです。竹田・山本、山本・山口〜橋本〜井上との親
   戚縁故に安富が加わりました。但、曽祖父竹田角左衛門定頼二男は、伊藤に養子に入り伊藤
   権左衛門と名乗りました。竹田と伊藤は兄弟です。角左衛門定頼の三男竹田仁太夫後忠右衛
   門は新知百石を拝領し、竹田が存続することになりましたが、嫡男尉太夫のとき暇を下されます。
   山本家督は四男仙左衛門が相続して、安富卯三郎を養子に迎えたわけです。
   安富卯三郎から見ると、養父と祖父は兄弟です。

   【高野家】 藤木八左衛門資長二男が養子に入り、高野源之進常尹と名乗ります。高野先祖は、
   土岐氏の裔で代々美濃国高野を領地していました。高野藤蔵光清が織田信長に仕えますが、
   信長生害後美濃国大垣に居住、後、慶長五年豊前小倉に下って浪人、豊後杵築で松井興長
   に召出されます。有馬陣で働きます。
    藤木祖は、天正年間古閑鎮資に仕え、後、加藤清正に仕えました。加藤家改易後山本郡大
   塚村にに居住します。大塚村が松井興長の妻古保の化粧田となったとき、興長に召出されます。
   当時藤木は大塚村に山を所有していましたが、帰属が明確ではありませんでした。興長によっ
   て旧来の所有権が認められます。その後、興長より八代への引越しが命じられ、塩屋小路に
   屋敷や家具を拝領します。興長の死に際して、願いを許された上追い腹を切ります。殉死です。
   大塚村の藤木所有の山は、追腹山と呼ばれます。高野、藤木の縁が結ばれました。

    平田に芳賀宇左衛門定候二男庄次郎が養子に入ります。宝暦六年のことです。元禄九年に
   後藤から養子が入り縁続きになっていました。平田、後藤、芳賀と縁ができましたが、後藤はす
   でに、西川、三上、梶原が養子に入っていますので、平田、後藤、三上・梶原、西川、芳賀とい   
   う縁故になりました。

      ◎ 明和年間1764年〜1771年
           (営之1776年まで・微之1766年〜1804年)

   【角田家】 荒木勇次郎が角田七郎右衛門勝彦の養子となります。勇次郎と七郎右衛門勝彦
   は兄弟です。新たな親戚関係が発生したわけでは有りません。
   角田、渡瀬、荒木、沢村、志水が親戚です。さらに、松井、細川(輝経)。荒木の縁から堤、宇野
   (瀬戸)と広がります。

    高野に二度目の養子橋津彦兵衛正脩末子甲助仙九郎が入り、高野平右衛門を名乗ります。
   橋津彦兵衛正脩は豊田助三郎のことです。父は豊田又四郎正剛、祖父は豊田伝右衛門高達
   です。伝右衛門高達は、岡田権左衛門末子岡田四郎次郎のことです。四郎次郎兄は頼藤へ養
   子に入った頼藤杢之助具貞です。杢之助具貞は松井興長に殉死します。
   高野は宝暦年間藤木から養子を迎えています。藤木八右衛門資長の二男高野源之進常尹です。
   藤木から熊本の久民又兵衛へ養子に入っていますし、原作左衛門は藤木八右衛門資長の弟で
   すから、藤木〜久民、原、橋津(岡田・豊田)、頼藤(岡田・豊田)と親戚関係が広がっています。
   藤木孫兵衛は松井興長に殉死しています。頼藤も殉死の家です。

   【中西家】 堤甚右衛門永智弟丹四郎が養子に入ります。中西角之進善昌です。祖父中西五三
   右衛門昌晴は堀口弥三郎浅之助ですし、曽祖父は柴山金弥です。中西、柴山、堀口、堤の縁故
   ができました。祖父五三右衛門は二男を加々見清右衛門へ、三男を菅沼半右衛門へ養子に遣り、
   四男の土岐四郎大四郎に家督を継がせます。さらに五男は堀口兆九郎へ、六男は大鳥弥三太
   夫に養子を送っています。中西、柴山、堀口、堤〜瀬戸・宇野、加々見、菅沼、大鳥と縁故関係
   が広がります。堀口の場合は、中西から堀口に戻ったということでしょう。
   堤の縁から荒木、角田と繋がります。

   【宮崎家】 鳥居玄清の弟が養子に入ります。宮崎の本道は医業です。元禄六年出仕を命ぜられ
   薬を調薬します。寛保年中馬乗格となります。鳥井は佐敷詰の医師です。

      ◎ 安永年間1772年〜1780年
            (微之1766年〜1804年)

   【堤家】 荒木九左衛門二男が養子に入ります。堤三郎と名乗ります。荒木九左衛門は、堤又左
   衛門永口の二男堤弁五郎嘉平太のことですから、代を経て戻ったわけです。
   荒木祖丹右衛門益次は、本姓角田氏松井七郎左衛門勝次四男で、松井采女康秀を祖とします。
   松井采女康秀の父は、松井半右衛門盛秀ですが天正十一年伊勢亀山城攻めで討死します。
   そのとき、采女康秀は母の胎内にいました。母は荒木山城守行重の娘です。康之は半右衛門
   盛秀弟仁平次元常に采女康秀の母を嫁がせ、仁平次元常に家督を相続させます。
   無事に生まれた康秀は、康之の諱を与えられて康秀と名乗ったのです。千百石一老となり、岐阜
   城攻め、関が原、大坂の陣、有馬之陣と活躍しますが、有馬の陣で嫡子半右衛門秀昌が傷を負
   い死亡します。家督は二男助左衛門秀為が継ぎます。ところが娘の縁組が原因で知行召上とな
   り、嫡子勘左衛門元秀に千百石が下されます。しかし父子は知行を返上して熊本へ立退き荒木
   氏と改めます。
    角田(松井)は、仁平次元常が文禄の役で戦死後嫡男外記元勝が相続します。外記元勝の四
   男は、沢村大学へ養子に入ります。
    堤には元禄年間瀬戸から養子に入った宇野から養子を迎えています。
   堤、宇野・瀬戸、荒木〜角田〜沢村と親戚が広がります。



     四、人のつながり

    ほぼ、二百年間の先祖附をさまよってきました。先祖附では、記載された七十三家のうち四十
   八家が養子を迎えていました。女性の結婚が記載されているのは確かですが、嫁いりを併せる
   と七十三家はすべて結ばれているのではないかと思えてしまいます。
    長年の養子縁組の中に、幾つかの流れが見えるように感じます。一つは、松井の称号を許され
   た家と家老家、いま一つは、山城国在地領主の家です。三つ目は、武門の家とでもいいましょう
   か、さらに、平和な時代に親戚縁故を拡張した家々など、大きな枠に纏められるようです。
   少ない女性の婚姻を含めて整理してみましょう。

     (一)松井称号御免の家

    まず、松井の称号を許された家系や家老家という視点から眺めてみたいと思います。
   松井の称号を許された家は四家あります。井上、竹田、田中、角田の四家です。田中は城代の
   家ですが、井上、竹田、角田は家老の家です。そうして井上、竹田、角田は康之の姉の嫁ぎ先
   又は康之の妻の姉妹の嫁ぎ先あるいはその子の嫁ぎ先です。田中が松井の称号を許されたの
   は、康之に唯一殉死を許された家だからです。他に、家老として山本があります。これらの家か
   ら親戚縁故を見てみましょう。

    はじめに井上家です。井上の先祖は、信濃源氏高梨氏です。足利氏に仕え細川晴元の幕下
   でした。丹後国桑田郡を領地し、井上城に居城しました。晴元没落後浪人し、丹後久美で松井
   康之に召し寄せられ、客分として四百石宛がわれました。井上市正吉勝を初代とします。井上市
   正吉勝は松井紀伊守之勝を名乗ります。松井紀伊守之勝の後妻は、竹田梅松軒の娘です。
   妻の兄が竹田(松井)長助定勝です。梅松軒の妻は康之の妻の姉です。沼田上野介光長の娘
   です。沼田上野介光長の妹が、細川藤孝の妻麝香です。
    井上家督は三男井上四郎兵衛正秀が継ぎます。竹田梅松軒の娘の子です。康之の妻自得
   院の姉の孫になります。井上嫡男は別に三百石拝領して松井勝右衛門と名乗ります。二男は
   橋本与左次に養子に入り橋本市正と名乗ります。四男井上久之丞は後藤与三衛門の養子に
   入り、後藤久兵衛正兼と名乗りますが、死亡の時継嗣がありません。慶長十九年から寛永元年
   (1624年)頃のことです。
    この頃、井上、橋本、後藤三右衛門家は三兄弟でした。井上には、その後、延宝年間(1673
   年〜1680年)松井(井上)治部右衛門正信に熊本の白井嘉平太が、宝暦年間(1751年〜
    1763年)にやはり熊本から田中万吉が養子に入ります。白井嘉平太が松井治部右衛門正賀、
   田中万吉が松井牛右衛門です。
    後藤は、井上久之丞の没後、養父与三右衛門に八十歳のとき男子が生まれます。八十郎と
   名づけます。後、家督をついで後藤三右衛門正福と名乗ります。宝暦年間(1751年〜1763年)
   後藤三右衛門正房二男が中川貞右衛門有英に養子に入り、中川五兵衛を名乗ります。
    橋本は、延宝年間山口へ養子を出します。橋本奥左衛門二男が山口伝左衛門勝成と名乗り
   ます。井上は、橋本、後藤三右衛門、白井、田中、山口と結ばれました。
    山口は、寛文元年(1661年)に山本から養子が入って山口伝左衛門と名乗ります。山本源左
   衛門勝行の三男です。山口伝左衛門の弟、山口源左衛門勝行五男弥左衛門金重の娘は、松
   井角左衛門定信へ養女に入っていました。松井角左衛門定信の実子は早世して継嗣がありま
   せんでしたので、孫娘を養女にしていたのです。松井角左衛門とは竹田角左衛門のことです。
   山本と竹田は姻戚でした。竹田は山本からの養女に前川から養子婿を迎えたのです。
   井上四郎兵衛正秀は、竹田の孫ですから、家老三家が結ばれています。
   延宝年間の井上は、細川、松井、橋本、後藤三右衛門家に白井、田中、山口、山本、竹田、前
   川まで縁が広がってきました。
    松井(井上)治部左衛門正信には二男がありましたが、新知行を拝領して別家をたてました。
   井上仙太夫家です。治部右衛門正信三男が、元禄年間(1688年〜1703年)に木本権右衛門
   正勝の養子となり、木本所兵衛正名と名乗ります。元禄年間には井上、細川、松井、橋本、後
   藤三右衛門、白井、田中、山口、山本、竹田、前川、井上仙太夫、木本が結ばれています。
    木本は、寛文年間(1661年〜1672年)中川将監二男渡辺権八が養子に入ります。木本権右
   衛門正勝と名乗ります。元禄年間(1688年〜1703年)松井治部右衛門正元三男[井上先祖附
   では治部右衛門正信三男]が養子に入ります。木本所兵衛正名です。享保年間(1716年〜1735
   年)には熊本の堀弥五右衛門三男半七郎を養子に迎えます。木本佐左衛門と名乗ります。
   又、木本は本姓渡辺です。中川将監子も渡辺を名乗っています。
    享保年間には、井上、細川、松井、橋本、後藤三右衛門、白井、田中、山口、山本、竹田、前
   川、井上仙太夫、木本、中川、堀が縁で結ばれます。
    元文年間(1736年〜1740年)には、井上分家井上角兵衛正栄三男が山本幸右衛門勝全の
   養子となります。山本武右衛門を名乗ります。
    山本幸右衛門の父山本源左衛門勝命は宇土の見崎弥兵衛の二男です。山本源五左衛門勝
   安の養子となり、後、分家しました。
    こうして、井上縁者は、細川、松井、橋本、後藤三右衛門、白井、田中、山口、山本、竹田、前
   川、井上仙太夫、木本、中川、堀、山本武右衛門、見崎となります。御給人先祖附から白井、田
   中、堀、見崎などの係累は分かりません。熊本や宇土の先祖附を調べないといけません。
    また、木本に養子に入った中川と、後藤から養子に行った中川とは別家のように思われます。
   先祖附には中川には、将監を名乗る人がいません。

    次に井上と縁が結ばれた山本家です。山本の先祖は、新羅三郎源義光です。山本対馬守秀
   勝は山城国に生まれ、将軍足利義輝に仕えました。義輝生害後浪人、織田信長の命で明智光
   秀に仕えます。対馬守秀勝は山崎之合戦で先手を受け持ち討死します。対馬守秀勝の子源太
   夫勝則は、秀勝戦死後松井康之に召し呼ばれます。山本源太夫勝則が近世山本家初代です。
   山本は養継嗣を迎えたことはありません。
    寛文年間(1661年〜1672年)以前、万治(1658年〜1660年)か明暦(1655年〜1657年)の頃、
   竹田へ山本源左衛門勝行五男弥左衛門金重の娘を養女に出しました。松井角左衛門定信の
   実子は早世して継嗣が有りませんでしたので、孫娘を養女にしていたのです。松井角左衛門と
   は竹田角左衛門のことです。山本と竹田は姻戚でした。寛文元年(1661年)山本源左衛門勝行
   の三男を山口へ養子に送ります。山口伝左衛門です。
    竹田では、山本からの養女に前川から養子婿を迎えます。延宝年間(1673年〜1680年)のこ
   とです。山本、竹田、山口が親戚になりました。山口には同じ延宝年間橋本から養子が入ります。
    橋本には、井上(松井)の二男井上市正です。市正の弟久之丞が後藤(三)に養子に入り、後
   藤久兵衛と名乗ります。井上家督は三男四郎兵衛正秀が継ぎ、嫡男は別に拝領して松井勝右
   衛門と名乗ります。
    延宝年間(1673年〜1680年)の山本は、山本、竹田、山口、橋本、井上、後藤(三)と縁を結び、
   竹田、井上、山本の家老三家に結びつきます。
    元文年間(1736年〜1740年)には、山本幸右衛門勝全に井上角兵衛正栄三男が養子となり
   ます。井上角兵衛正栄は井上分家です。山本幸右衛門勝全は山本分家です。井上、山本の
   分家同志が縁を結んだわけです。山本幸右衛門の父山本源左衛門勝命は見崎弥兵衛の二男
   です。見崎弥兵衛の三男は中山家に入った中山陽右衛門です。
   山本、竹田、山口、橋本、井上後藤(三)、井上(仙)、山本(武)、見崎、中山が結ばれました。
    宝暦年間(1751年〜1763年)、山本が山口を名跡相続します。
   山本は、竹田、井上、山口、橋本、後藤(三)、井上(仙)、山本(武)、見崎、中山、安富と縁で
   結ばれました。

    竹田家先祖は、武田冠者源義清です。十五代の孫武田大膳太夫信時の二男武田侍従定栄
   瑞竹軒が足利義晴に仕え、山城国竹田郷を領地しました。瑞竹軒子竹田織部正定雄は将軍
   足利義輝に仕え、義輝生害の後浪人、梅松軒と称し羽柴秀吉に仕えました。梅松軒の嫡男藤
   松の母は、松井康之の妻の姉でした。藤松は丹後久美で康之に育てられ、天正十五年知行百
   二十五石拝領します。熊本に別家、肥前鍋島家に別家があります。
    竹田梅松軒の妻は、康之の妻自得院の姉です。松井、竹田の縁により康之に仕えます。
   延宝年間、養女にしていた松井(竹田)角左衛門定信の孫、山本弥左衛門金重の娘に、前川
   彦左衛門二男を養子に迎えました。竹田角左衛門定頼と名乗ります。山本弥左衛門金重の妻
   は、松井(竹田)角左衛門定信の娘であったわけです。竹田と山本は姻戚でした。
   山本弥左衛門金重は後に家督をついで源太左衛門金重と名乗ります。源太左衛門金重の兄が
   山口伝左衛門です。山本の縁から、山口、橋本、井上、山本武右衛門、見崎、中山、井上仙右
   衛門と縁故が広がりました。角左衛門定頼の二男は、伊藤に養子に入り伊藤権左衛門と名乗り
   ます。伊藤は先祖附に記載が有りません。その後、宝暦年間(1751年〜1763年)に熊本の安
   富卯三郎を養子に迎えます。
   竹田は、細川、松井、井上、山本、前川、山口、橋本、山本武右衛門、見崎、井上仙右衛門、伊
   藤、安富と縁が繋がります。熊本、肥前鍋島藩を加えると大きく広がっていくことでしょう。

    角田家は、関東八平氏の内千葉上野介常忠を祖とし十六代の孫千葉助七郎貞常が角田姓を
   名乗り、足利義政に仕えました。貞常曾孫角田采女正は足利義輝に仕え、義輝の諱を拝領して
   従五位下因幡守藤秀を称しました。義輝生害後浪人剃髪、宗伊と称します。勝龍寺城で扶助米
   を受け康之に仕え、子の三平次、仁平次は松井の称号を許されて、天正九年丹後久美で二の
   丸に屋敷を拝領しました。宗伊の妻は、康之の姉、細川輝経の妻の妹です。細川陸奥守輝経は、
   細川忠興の養父です。三平次は、松井半右衛門盛秀と名乗り、伊勢国亀山攻めで討死します。
   残された身重の妻は、仁平次に嫁ぎ、仁平次元常が家督を相続します。生まれた子供は、松井
   康之の諱を拝領して松井采女康秀と名乗ります。一老となりますが子孫は立退いて熊本に行き
   荒木姓に改めます。仁平次元常二男は京東福寺不二庵主阮西堂、三男は松井団兵衛、四男は
   沢村右衛門です。角田、荒木(松井采女康秀の系)、沢村の親戚が出来ました。又、角田、松井、
   細川の縁もあります。以降明和年間(1764年〜1771年)荒木勇次郎が養子に入るまで、養子を
   迎えることはありません。
    貞享年間(1684年〜1687年)中山に松井外記元勝二男角田助九郎が養子に入りますが、養
   父中山藤兵衛に実子が出来たため、新知二百石を拝領して角田に復します。松井(角田)外記
   元勝の妻は、康之の妻自得院の弟松井河内吉長の娘です。
    角田分家として、荒木家(仁平次元常の系)、渡瀬家があります。荒木、渡瀬の初めは兄弟で
   す。荒木は、松井七郎左衛門勝次四男荒木丹右衛門が初代です。延享元年(1744年)堤又左
   衛門永■二男弁五郎嘉平太が養子に入ります。荒木九左衛門廉安です。荒木、堤が親戚にな
   りました。堤は、堤又左衛門永栄が、宇野源七隆久二男です。元禄年間(1688年〜1703年)養
   子に入りました。宇野源七隆久とは瀬戸源七のことです。堤から瀬戸・宇野と縁故が増えていき
   ます。渡瀬は松井七郎左衛門勝次二男渡瀬儀兵衛則次を初代とします。宝暦六年(1756年)志
   水又左衛門元(之?)真三男が養子に入ります。渡瀬小三太です。渡瀬と志水が結ばれました。
    細川、松井、角田、荒木(松井采女康秀の系)、沢村、荒木(仁平次元常の系)、堤、瀬戸・宇
   野、渡瀬、志水が親戚縁故となりました。
    志水には、享保十年(1726年)渡瀬甚平昌勝二男が養子に入って、志水又左衛門元貞と名乗
   ります。渡瀬小三太の父です。宝暦年間(1751年〜1763年)には志水又左衛門之(元?)真二
   男が下津に養子に入り、下津丹左衛門一政と名乗ります。宝暦年の渡瀬、下津、志水は兄弟で
   す。志水からは、宝永二年(1705年)志水文右衛門重教二男が、近藤八兵衛包明の養子に入っ
   ています。近藤八兵衛景包です。
    下津は、下津権内一通の跡を志水悪兵衛次男が名跡相続して、志水半左衛門一安と名乗り
   ます。その後、寛文年間、享保年間と二度沢井から養子が入ります。沢井次右衛門重豊二男が
   下津半助元公です。沢井次右衛門重豊の弟が沢井清三郎正重(善太夫正重)です。
   下津半助元公継嗣丹左衛門一政は、沢井太左衛門の二男です。
    沢井清三郎正重(善太夫正重)が松井寄之の守役です。寄之は、細川忠興と真下梶之助娘さ
   いとの子です。松井興長の養子となりました。沢井は、熊本の真下・横山や細川忠興と親戚です。
   [※沢井元生・著「家系永代記録沢井家」がある] 正徳年間(1711年〜1715年)には、沢井清三
   郎勝重二男弁七が本島市郎左衛門元房に養子に入り、市郎左衛門喜季と名乗ります。市郎左
   衛門喜季の二男五次郎が小沢一郎次に養子に行き、小沢右兵衛を名乗ります。延享年間(1744
   年〜1747年)のことです。三男軍平は仲井理三右衛門に養子に入って、仲井角太夫と名乗ります。
   本島からは、延宝年間(1673年〜1680年)遠藤次右衛門常清に市郎左衛門喜季二男平七が養
   子に入っています。遠藤七太夫常政です。
    仲井は元禄年間(1688年〜1703年)武兵衛貞則に、田中(松井)から養子を迎えています。
   田中(松井)又右衛門盛季三男八十郎です。仲井武兵衛貞秀と名乗ります。
    小沢は享保(1716年〜1735年)・元文年間(1736年〜1740年)と二度三上から養子を迎えて
   います。小沢忠右衛門清治へ三上清兵衛正儀二男が養子です。小沢五郎右衛門定清です。
   五郎右衛門定清へ三上清兵衛久遠二男市郎次が養子に入って、市郎次清遥と名乗ります。
   三上清兵衛久遠三男弥三次は坂井長右衛門に養子に入って、坂井三郎右衛門と名乗ります。
    梶原は、三上から延宝年間(1673年〜1680年)養子に入っています。梶原友益景英、剃髪し
   て梶原三実と名乗ります。梶原からは、元文年間後藤新兵衛真昌に養子を送ります。
   後藤助太夫と名乗ります。後藤新兵衛真昌は、西川伊兵衛の二男です。
   助太夫真定に養子に入りました。
   後藤助太夫真定の弟武左衛門は、平田長太夫隆言へ養子に入ります。平田左太夫隆休です。
    平田には、宝暦年間(1751年〜1771年)芳賀宇左衛門貞候の二男が養子に入ります。
   平田左太夫隆休です。
    堤から中西に養子です。明和年間(1764年〜1771年)堤常左衛門永貞二男が中西孫右衛門
   昌凭に養子に入ります。中西角之進善昌です。角之進善昌の実父の弟が、荒木丹太夫廉定養
   子九左衛門廉安です。中西孫右衛門昌凭は、初め土岐四郎大四郎と言い中西の四男です。
   兄弟は、加々見清右衛門へ、菅沼半右衛門へ、堀口兆九郎へ、大鳥三太夫へそれぞれ養子に
   行きます。更に、祖父中西五三右衛門は、堀口から養子に入った堀口弥三郎浅之助のことです。
   五三右衛門の妻染は、松井寿之と大久保某娘との子です。
    安永年間(1772年〜1782年)角田仁兵衛の二男万吉は仲井善右衛門へ、三男甚蔵は坂井善
   左衛門に養子に入ります。
    角田は、細川、松井、角田、荒木(松井采女康秀の系)、荒木(仁平次元常の系)、渡瀬、沢村、
   堤、瀬戸・宇野、志水、沢井、下津、近藤、本島、仲井、田中(松井)、小沢、三上、坂井、後藤、
   西川、平田、芳賀、中西、柴山、堀口、大鳥、菅沼、加々見、当主松井寿之と縁が広がりました。


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