ストックホルム日本人会会報より我が祖先「上田久兵衛」−1−

スウェーデン在住  Kaoru Ueda Jacobsson (上田香)

東京外語大卒、NHKで放送制作に従事する傍ら都立大卒、
スウェーデンに渡り1981年ストックホルム商大卒業。
15年前からストックホルム国税局で税務調査に携わる。

 ■ ルーツ探索(西南戦争)

 1995年、クリスマスも近い歳末であった。職場のモニカが是非読めと言って「アンナ、ハンナ、ヨハンナ」という本を私の部屋に置いていった。この本に登場するハンナは、1800年の終りにスウェーデンの田舎で生まれ、不運にも12歳で暴行をうけ母となる。その末娘ヨハンナは教育をうけ、アンナを生む。そしてこのアンナが長じたとき、女性三代の歴史を書くという話であるが、そこにはスウェーデン100年の歴史が活き活きと描かれており、息も継がずに読んでしまった。ハンナの人生は確実にヨハンナの人生に影響を与え、またヨハンナの人生があってこそアンナの今日の人生がある。現在の私も、祖先一人一人の人生の積み重ねの上に生きている事を実感し、ルーツを探りたいと急に思うようになった。そのとき頭に浮かんだのが上田家九代目の久兵衛(1830〜1877)である。

 久兵衛の話は小さい頃から聞いて育った。「久兵衛は切腹した」(事実は斬首だった)。「久兵衛の長男勤は怒って、長男の稔(私の祖父、1876〜1956)への明治の新教育を拒否し、家庭で自ら侍教育にあたった」。「稔は12歳の頃熊本の町に丁髷姿で出て石を投げられたり、髷を掴んで引き摺り回されたりして、これはおかしいと家出し、東京で書生になった。漢文だけは出来たので東京高師に入り教師となり、その後実業家になったが、義務教育を受けていないので経世の常識に欠け、後に財産を失い零落した」 

 祖父は、徳川昭武に随行してパリに向かう渋沢栄一が出航前に久兵衛に書き送った書簡を私にくれた。渡仏の表向きの理由はパリ万国博への参加であるが、実は仏国への軍事援助依頼が目的の旅であった。上田家再興の折りにはこの書簡をもって、渋沢家を訪ねよと言い遺したが、祖父は恐らく上田家再興の願いを子孫に託したのだと思う。

 さて、私の一番の関心事は上田家のことよりも、当地で生まれた子供達が人間として幸せな人生を歩めるかということ、或いは自分自身の人生を充実させることである。しかし「アンナ、ハンナ、ヨハンナ」を読んで久兵衛のことが急に調べたくなり、それから二週間後の1996年初頭、私は熊本で久兵衛の話を土地の人々に聞き回っていたのである。又その結果、久兵衛の足跡を記録したいという想いが募り、NHK時代の先輩渡辺績(いさお)氏を訪ねて相談した。そして1996年夏にはプロジューサー渡辺氏、カメラマン高尾氏と再び熊本を訪れ「戦火から庶民を守った上田休」という30分のビデオを完成した。(ここで「休」とは久兵衛致仕後の名)。

 さらに足跡を辿るこの旅の中で、箪笥一杯の貴重な久兵衛関係史料も発見され、東大史料編纂所において「永久保存」ということになった。また2002年4月には国立民族博物館長 宮地正人氏編解説「幕末京都の政局と朝廷-肥後藩京都留守居役の書状・日記から見た-」が名著刊行会から出版された。私のルーツ探索の旅はここで一段落したのだが、「歴史から忘れられた久兵衛が没後127年にして真実を明らかにする機会を与えられた」と感に堪えなかった。

 「一、男は農業に精を出し、女房は苧機(カラムシハタ)を織り、夜なべして夫婦ともに稼ぐこと。   
  一、親にはよくよく孝行する心を深くもたなければならない。」  

 これは、1649年2月の「慶安の触書」に記載されてた文言の一部である。親孝行をし、勤勉であれという教えだが、戦中派を親にもつ私は、まさに親孝行と勤勉の勧めを遠慮なく叩き込まれた気がする。土、日なしの受験勉強にしろ、働きに出てからのオーバータイムにせよ、孝と勤勉の精神に支えられていたからこそ出来たように思えてならない。さてこの触書が出てから200年あまりを経た慶應ニ年(1866)に、肥後は川尻の町奉行上田久兵衛が、次のような触書を出している。

 「上田自身に不善があったら遠慮なく申し出て欲しいが、他人の不善をみだりに口外してはならない。賞罰に不公平があったら速やかに申し出よ。また、万一、天災その他の不幸が有れば身命を賭して世話をする覚悟である。」「年寄りを敬い、子供をあなどってはならない。」「良く働いた時には楽しむべきである。人は楽しまなければ病気になり、働くことに差しさわりができる。しかし、楽しみが過ぎると放逸になるので、気をつけ無ければならない。」

 この触書で久兵衛は、下の者に対して求めるのではなく、上にたつ者としての自己批判も忘れていない。また働くだけではなく、楽しめとも言っているのである。なお親孝行の教えはよく聞くが、それと同時に「子供をあなどるな」と諭す教えはあまり聞いたことがない。

 川尻町は、現在では熊本市の一部であるが、かつては肥後藩の軍港であった。年貢米20万俵が水運を利用して川尻に集められた。また川尻は参勤交代の際の宿駅でもあった。久兵衛はこの川尻町に奉行として働いた二年の間、町の老人をいたわり、洪水に際しては自ら率先して警戒に当たったという。町の人々は心から久兵衛を慕い、久兵衛もまた川尻を愛した。しかし川尻での勤務が、後の久兵衛の運命を大きく変えようとはだれが想像したであろうか。

 明治10年(1877)2月、西南戦争が始まった。当時の久兵衛は名を休と改め、塾を半田村に開いていた。明治八年には中国西湖に旅して中国の文人と筆談を楽しみ、また其の頃は詩歌を愛し、専ら書画詩酒に親しんでいた。さて鹿児島を出た薩軍は一週間で川尻に到達し、ここに最初の本陣を構えて(本陣は現存)「新政大総督、征伐大元帥西郷吉之助」の看板を掲げた。熊本城は包囲され、役人は我先にと逃げ出した。全県下は無政府状態となり、脱獄した囚人たちは野放しとなった。その上本陣の置かれた川尻では、薩軍による物資の徴発、夫役の強制が行われたから、町民たちは極度の不安と恐怖に曝された。戦場となった熊本では、士族達は幾つかの派にわかれた。文明開化を支持する実学党は中立をとるか、あるいは政府軍に協力した。学校党は二派に分かれた。一派は池辺吉十郎の熊本隊に属して西郷側に立ち、あとの一派は局外中立を唱え川尻およびその周辺の鎮撫に当る上田久兵衛の鎮撫隊に属した。

 作品「飛ぶが如く」の中で、司馬遼太郎は学校党のことを次のように描いている。

「学校党は幕末における公武合体派(佐幕派)だったとはいえ薩摩の島津久光のような狂信的な保守主義ではなかった。彼らの出身は石取り階級が多く、また旧細川藩における官僚層の出身もしくはその子弟が圧倒的で、要するに薩長両藩に壟断されている東京政権については腹をうちわれば『天下を二、三の雄藩で専有していいのか』という維新に乗り遅れた細川武士の雄藩人としての素朴な自負心と怒りからその反政府熱は出ているといっていいだろう。彼らは池辺吉十郎に統御されていた。池辺は肥後の西郷という異名さえあったほどに人望のある男でかっては二百石の身分にあり幕末では細川家を代表して京都にあり、公用人として奔走し幕末における薩長の統幕活動陰に陽に牽制したが薩長が成功して新政府が出来た。池辺としては満腔の不満があって当然であろう」

 司馬遼太郎は、名実共に肥後の西郷と呼ばれ、京都で公武合体の調整に視力を尽くした久兵衛の業績を池辺吉十郎の功績としてしまった。司馬氏と親しいNHKの知人が氏にその理由を直接聞いてくれる筈であったが、司馬氏の急逝によってその機が惜しくも喪われ、理由は謎のままに残ってしまった。当時、京都留守居役として活躍したのは久兵衛(休)であり、また休は、西南戦争で薩軍に味方することなく局外中立の立場をとったのである。戦乱の常とはいえ混乱の極地にあった川尻の住民数十名が、かつての町奉行休を訪れて助けを懇願した。逡巡の末、休は川尻に赴き、鎮撫隊を組織して町民を救うことに全生命をかけたの  である。薩軍には、局外中立の立場で自分がかつて統治した町民を苦しみから救うための行動であることを告げた。また薩軍と交渉して車夫、人夫の賃金等を定めた。こうして川尻の治安が安定すると、近隣の地域からも鎮撫を願う声が相次ぎ、緑川の南北にわたる周辺の地域の治安を  維持することになった。また志を同じくする士族たちが次々と休の許に集まり、その数は千七八百人にのぼったという。その頃の休の民を思う心は「火に焼かれ 風に漂う民草の やがて枯れなん秋ぞ悲しき」という歌に出ていると思う。

 やがて戦局に変化が訪れて官軍が川尻に入り休は取り調べを受けることになるが、鎮撫の仕事  は評価され、賞詞が与えられた。戦争でひどい目にあうのはいつも庶民である。局外中立で庶民を守った休を誇りに思うと同時に、世界各地の紛争で局外中立の役割を果たそうとしている国連の  活動をみて、休の思想が現代に通じることを個人的に感じている。

 しかしそれから間もない五月に休は突然、熊本の獄に収容されて、その四ヶ月後の九月三十日に斬首の刑をうけた。「首謀、参謀・斬、大隊長級十年、中隊長級五年、小隊長級三年、半隊長級  二年、分隊長級一年」という量刑のうち一番重い斬首の刑を皆に先立って、鹿児島県令(知事)大山綱良らと同日の九月三十日斬首の刑をうけた。薩軍に加担したとの冤罪であった。裁判は新設の「九州臨時裁判所」で行われたが、この「九州臨時裁判所は、司法当局および軍事  当局の干与を排除する建前で、西南戦争に関する一切の裁判を行う権限を委任され、その性格は司法裁判でも軍事裁判でもなく、行政権による裁判(我妻栄編・日本政治裁判史録-明治前-410頁)」であった。またその実質的な意味での裁判長は、佐賀の乱の裁判で大久保利通の政敵江藤  新平を斬首のうえ「近代法治国家にあるまじき梟首(さらし首)の極刑(前掲書356頁)」に処した元老院幹事、前司法大判事の河野敏鎌であったのである(前掲書412頁)。この様に政治的意味合いの極めて強い判決を受けたのも、その理由は、肥後藩京都留守居役として幕末に京都で活躍したせいであろうといわれている。