ストックホルム日本人会会報より我が祖先「上田久兵衛」−2−

■ ルーツ探索(幕末)

T 明治維新(1868年)

 おぼろげな中学校での学習を思い起こせば、明治維新とはまず「イヤー(18)ロッパ(68)君」(1868年の語呂合わせ)。次いで「旧習にとらわれる頑迷な幕藩体制は明治維新によって終止符が打たれ、日本は文明開化の近代社会に変貌した。」といったところである。そして「明治維新は、尊王攘夷を唱える勢力によって成し遂げられた」と学んだ。

 肥後熊本藩京都留守居役の上田久兵衛(1830〜1877)が当時の政治の中心京都で働いたのは、明治維新を遡る約4前から1年半程の間であり、京都ははまさに幕末の激動期にあった。なお付言すれば久兵衛が熊本に帰藩して約1ヶ月後に、薩長はあの有名な倒幕の密約(1886-1-21)を結んでいる。

1860年3月、勅許を受けずに日米修好通称条約を結んだ井伊大老が暗殺(桜田門外の変)されると、幕権はにわかに衰え、朝廷の権威と、諸藩の発言力が急速に増大した。とりわけ薩長両藩は朝幕間に介入することが多くなり、やがて長州藩は1863年5月、米仏などの艦船を下関海峡で砲撃して攘夷を実行した。1863年8月18日、孝明天皇の意を体した「宮中クーデター」が起こり、京都における尊王攘夷派の主導権が公武合体派に移ると(文久政変)、1864年7月、長州藩は武力による権力奪回を図って京都に攻め上がった。

 現在の京都御所周辺は京都御苑という大公園であるが、当時はお公家さんたちの家々で埋め尽くされていた。これらの家々は、立て篭もって発砲する長州勢を燻り出すために火を放たれ、例えば鷹司、九条などの家々も焼失した。なお御所とは目と鼻の先にある蛤御門での戦いは峻烈をきわめ、鉄砲玉が御所まで入ったといわれている。7月17,18日の2日に亘るこの戦いは「禁門の変」と呼ばれるが、久兵衛はその直後の8月1日に、中心部が焼け野原になった京都に到着する。また着任の4日後には、英米仏蘭4国連合艦隊の下関砲撃が始まるという激動の最中であった。

 京都における久兵衛は肥後藩の藩是に従い公武合体を唱えて働くのであるが、この「公武合体」とは、朝廷と幕府が協力して国難を処理しようとする主張であり、「尊王攘夷」思想に対抗するするようにして生まれた。なお「尊王攘夷」とは、天皇の権威の絶対化と排外主義とを結合した政治思想であり、その初期には討幕思想を含まなかった。

 さて、朝廷への忠誠心であるが、公武合体派とはいえ、尊王攘夷派に劣る事はなかったようである。1864年11月、尊王攘夷を決行しようとして破れた水戸藩過激派は京都に上ろうとしたが(天狗党の乱)、その時、一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜、水戸藩出身)は同じ水戸出身の過激派征伐のために京都を離れた。心配した朝彦親王(皇族、朝廷国事掛)の「水戸浪士勢と慶喜が万一合体した場合には、どうするのか」という下問に対して久兵衛は「その時は慶喜とても、列藩で討ち取る」と朝廷への忠誠を明確に誓っている。幕府よりも朝廷への忠誠心が篤いのである。

 ところで公武合体を主張した久兵衛については、明治維新を成し遂げた人々とは違い、文明開化に対する頑迷な旧思想の持ち主かと実は思っていたが、久兵衛の遺した書類中には英語の練習帳もみつかった。また明治元年(1868)には福沢諭吉の西洋事情、明治五年(1873)には普仏戦争史略を読んだと日誌に書いている。さらにヨーロッパの国々に関するメモや、瑞国に関する記述もあった。

 さて、明治維新の理念であった尊王攘夷思想の「攘夷」と「文明開化」とはどのようにして結びつくのであろうか。また倒幕の大義名分は何処から出てきたのであろうか。大政奉還を決意した頃の徳川慶喜は開国政策を唱え、西周による「議題草案」の採択も考えていたという。草案では上院、下院からなる議会、中央官庁等を核とした近代国家への構想も練られていた。少し乱暴な話かも知れないが、明治維新は長州、薩摩を始とする数藩と、幕府を単に置き換えた公武合体であったように思えてならない。当時流行った「勝てば官軍」という言葉のように、明治維新とはイデオロギーの戦いというよりも権力闘争の性格が濃厚であった様な気がしている。

U 朝幕融和

 昨2002年4月に出版された名著刊行会の新刊「幕末京都の政局と朝廷−肥後藩京都留守居役の書状、日記からみた−」(東京大学史料編纂所教授宮地正人編、解説 現・国立民族歴史博物館長)は、元治元年(1864)7月29日から慶應元年(1865)12月9日に至る久兵衛の日記、書簡類を採録し、それに宮地教授が解説を付したものである。「通例の幕末史では幕府対薩長同盟の形成という図式で叙述されるこの時期を『朝幕融和運動』という全く別個の角度から分析する」という視点で構成されている。以下の記述は宮地教授の解説に従うところが多いが、私の浅学ゆえの誤りがあれば、ご容赦願いたい。

 ところで、朝幕融和の実現には、先ず朝廷側そして幕府側の、それぞれの要路者と通じるパイプの確保が不可欠である。朝廷側は国事掛の朝彦親王、二条関白等、幕府側は禁裏守護総督一橋慶喜、京都守護職松平容保(会津藩主)、京都所司代松平定敬(桑名藩主)等が、当時の朝幕の接点を形成していた。なお1865年閏5月、第14代将軍家茂が第二次征長のために上阪すると、久兵衛の折衝先には老中、大目付等が加わることになる。さらに、藩政府や、自藩の京都詰重役との意思疎通も大切な仕事であった。

 次に禁門の変以降の各勢力の思惑を述べれば、朝廷と一会桑勢力(一橋慶喜、守護職、所司代の連合)とは公武合体の更なる推進を企画し、江戸の幕閣は、禁門の変の成功を好機と捉えて例えば参勤交代復活というような幕権の以前への復旧を図り、薩摩は、雄藩の連合によって幕府からの権力奪取をねらっていた。従って幕閣の思惑を正して一会桑勢力の思惑に一致させること、権力奪取をねらう薩摩と対決することが、久兵衛の任務となった。

 在京中に、何度となく朝廷と幕府の間に齟齬が生じたが、その度に、朝廷と幕府の間をとりもつための機先を制する現実的な解決策を講じ、危機を救ったといっても過言ではないと思う。

−1− 将軍の上坂

 御所の周りは焼け野原になり、御所にまで鉄砲弾が入ってくる大乱、禁門の変をおこした長州藩の行動に激怒した孝明天皇は久兵衛着京の8日前、1864年7月23日に朝敵長州藩の追討を慶喜に命じた。幕府は直ちに西国21藩に出兵を命じたが(第一次征長)、朝廷の望む「将軍家茂が進発し、京坂の地を基盤とする朝幕の合体」という事態は起こらなかった。江戸の幕閣は将軍の上坂を全く考慮しないだけではなく、征長に消極的であった徳川慶勝前尾張藩主を征長総督に任命した。 8月以降、朝廷、一会桑勢力は将軍への勅書、上洛した老中や将軍使者への説得や斡旋以来などの手段で将軍の上坂を再三促してきたのだが効果は得られなかったのである。

 遂に守護職を勅使として江戸へ下向させる案(一会桑路線)や、朝命で諸藩を収集する案(薩藩路線)が有力となるにいたった。

 困惑した二条関白は12月1日、外様大藩で朝幕融和路線をとる肥後藩の代表者を上京させ、斡旋を依頼したいと久兵衛に相談するが、久兵衛は論理的に薩藩路線となる「朝廷と大藩との直接結合」は、幕府に疑念を抱かせて公武隔絶を生むと反論した。将軍進発には言及することなく閣老を上京させるようにし、上京したら政治状況を良く理解させた上で、将軍進発の実現を図るという
「閣老召」の考えを提示した。この案は幕府が拒んでも、交渉の手掛かりを失うまいとの考えから出ていた。

 大いに同意した関白は朝彦親王の同意を直ちに得て勅諚案を用意し、久兵衛に加筆を命じた後、勅諚を発する手続きをとった。

 当時の京都は、高杉晋作等激派の蜂起で長州に内乱が起りその一部が京攝に潜入する不安が囁かれる様な状況にあり、また他方では一会桑を排除し、幕府優位の下で朝幕直結体制を実現しようとする幕閣の動きも次第に激しくなってなっていた。このため軍事的、経済的に比較的弱体な慶喜は時に薩摩路線に傾くこともあり、久兵衛は活動に支障を受けるだけではなく、薩摩の大久保等にその存在を強く意識される羽目となった。

 さて閣老召の結果、翌年の1865年2月22日に参内となった阿部、本庄の二閣老は、二条関白の激しい叱責を受けて将軍上洛の為に尽力を確約した。また別の諸ルートによる運動も奏効して幕閣内の力関係も激変し、3月17日には将軍上坂を報じる大老、老中の連署状が京都守護職に発せられた。

−2− 征長の促進

 将軍家茂は1865年閏5月22日に入京、参内して長州征伐の理由を奏上し、25日には大阪城に入った。第二次征長は、第一次征長総督徳川慶勝が朝廷や幕府の意向を無視し、西郷の建策に基いて事態の決着を図らず曖昧なままに戦いを終わらせた事、またその後の長州では激派が優勢となって放置できない情勢にあった事から必要と考えられた。なお将軍が再征の勅許を受けたのは9月21日である。

 関白と一会桑の間では久兵衛も参画して、「一会桑が長州処置のすべてに係る」、「将軍は慶喜を第一に重用する」、「将軍は諸事解決するまで滞坂」、その他、長州問題の解決法や長州藩主の取り扱い方などにかかわる13ケ条の基本方針が将軍参内前に既に決めれらていた。

 また6月8日、阿部閣老に呼ばれた久兵衛は、長州の末藩または岩国藩に上坂を命じて詰問し、正義派と激派とを明確にした上で正義派を助け、激派を討つべきであると進言した。

 その後の事態は、これらの方針や提言に沿って進行したが、「長州は大軍西下の圧力だけで畏怖する」と安易に考える幕府当局者の姿勢に久兵衛は危機感を抱き、早期開戦の必要性を強く感じていた。ところが幕府軍の弛緩した現状に、開戦すれば必勝は困難と考え早期開戦を否定する勢力が肥後藩京都藩邸に俄に生まれ、久兵衛は藩からの使者と辞職をかけた激論となり、4日を要して漸く従来の藩方針は維持されたが、両者はいずれも幕府の将来に暗澹とした気分であった。

−3− 朝幕関係の修復

 勅許を1865年9月21日に得て、9月27日を期し長州進攻と決定した計画は、英米仏蘭4国連合艦隊が兵庫沖に来航し、井伊大老の下で調印した通商条約の勅許と、兵庫開港とを要求したことによって実行不可能になっただけではなく、新たに困難な問題を抱えることになった。

 9月26日、幕府は勅許を得ずに兵庫開港を幕議で決定し、安部閣老が外国代表に開港を約してしまった。しかし迅速果断な慶喜の対応のお陰で外国代表との間で10日間の回答延期を得ることができ、事態は急転して小康を得た。

 10月4日、慶喜らは朝議で条約勅許を強硬に求めるが、決着がつかず、朝議は外国艦を退去させる手段に窮して5日の朝まで続いた。そこで在京の諸藩士を急遽召集し、意見を聞いた上で方針を決定することになった。

 召しを受けた16藩々士が通された広間には御簾内に孝明天皇が座し、天皇の前方左側に一会桑と小笠原長行、右側には議奏、武家伝奏がそれぞれ列座した。さらに議奏らの後方に公家衆が、御簾を隔てて座していた。一番に発言した久兵衛は、「武威に屈し兵庫を開港すれば国体を損じ、皇威、幕威も地を払う危険を外国代表に説き、一旦退去するよう交渉する事」、「今日、横浜鎖港は断り難いと考えるので、日本が立ち行く様に条約内容の改正を交渉すること」を主張した。続いて各藩士の演述があり、終わって「条約勅許、但し兵庫開港の儀は差止め」の勅書が出され、懸案の条約勅許問題は解決した。幕府は、条約勅許及び兵庫開港問題の大失態により多くの要路者を罷免したため、将軍家茂の囲りには京阪の事情や、朝廷の内情に精通する者がほとんど居なくなってしまった。このため久兵衛は幕府は漸次貴重な存在となり、日々登城して老中の相談を受ける機会も多く、朝彦親王から「久兵衛はもう老中の給与を貰ったか」と冗談を言われる程になった。しかし第二次征長に批判的な前記藩内勢力の勢いが強まり、久兵衛は12月9日に帰国命令を受け、職務から突然開放され、帰藩して、川尻の町奉行の職についた。

V 歴史

 激動の時代の歴史的な出来事も久兵衛の手紙、日誌を通じて、随分身近なものに感じられるようになった。明日はどうなるかわからない未知の世界で、人々は意識的にあるいは無意識に選択していく。そこには喜び、怒り、悲しみといった人間の生の感情があり、それが手紙、日誌を通じて手にとるように伝わってくる。まさに生きた歴史である。

 徳川慶喜は久兵衛に小判をくれたりしており、朝彦親王は久兵衛を信頼し、何かと相談した。渋沢栄一も久兵衛と仲良くつきあっていた。久兵衛が京都留守居役からおりたとき西郷隆盛はなによりも喜んだ等ということが読んでいくうちに、今まで歴史上の人物として遥か彼方にあった人々が身近に感じられるようになった。

 東大史料編纂所に寄付された書類の中には、子供の頃に始まり投獄される前日に終わる日誌が残っている。京都時代に書かれた現在でも残っている書状には主に父と妻宛てのものであるが、政治的な話だけではなく日常生活の話も随分と出てくる。松茸狩りに行ったが、松茸よりも人間の数の方が多かったこと。妻が大病になった時には心配のあまり破れかぶれになったこと。長女と次女には髪飾りと衣装を送り、次男には草履を送ったこと。京都留守居役として必要な衣装には火事羽織があり、十両という大金をかけて作ったと妻に報告しているが、その他にも金の使用報告を再三している。また納豆や干し大根を送ってくれとも書いている。干し大根ならば五分漬けにして弁当のおかずやら客への酒の肴やらにできる。生の大根を自分で料理している暇は無いので台所に出すと出来は悪いし、半分に減ってしまうのが残念だというのである。

 幕府の大目付であった永井尚志を訪れる時のみやげは煙草いれ瓢箪一ケと煙草一箱であり、また聖武記を一冊貸した。藤紙を持っていき、書画を書いてくれるよう頼んでいる。永井からは扇子をもらった。漢詩や和歌を交換するというのは、今のゴルフと同じくらいに大切な意味を持っていたようで、久兵衛の場合には和漢に通じていたことが永井との交友においても寄与するところ大であった。五摂家の近衛忠房内大臣を和歌で感心させ和歌を教えて貰いたいとまで言われている。 慶應元年(1865)9月には物価騰貴について絹物は倍の倍になると書いている。このとき、長州征伐のため大軍が大坂におり需要が多かったため、また下関封鎖のため日本海の物資が入らなかったためである。

 江戸時代から明治になる段階で過去のはしごをはずされたしまったいう話を聞いたが、私も久兵衛探索の旅を始めてからしみじみそう思うようになった。ストリンドベリーの作品は読めても、1830年生まれの先祖の日誌が読めないということは日本人として情けない限りであると思う。日本の歴史を探る時に江戸時代以前にかかれたものに関しては、変体仮名や語法の相違などがあって、現代語訳あるいは印刷したものしか読めないというのでは、今まで営々として築き上げられてきた歴史が、途中で途切れてしまうような気がしてならない。定年退職後はゆっくりと古文書解読、漢学の勉強を始めようかと考えている今日この頃である。久兵衛との対話はこれからも長く続きそうである。
                            −完−