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    田中家は、志摩守盛永殉死により松井の称号を許され、嫡男角兵衛盛勝のほか、三蔵盛忠、
   大学盛時が、別家となります。元禄年間(1668年〜1703年)、角兵衛盛勝の子又右衛門盛季の
   三男八十郎が、仲井武兵衛貞則に養子に入ります。仲井武兵衛貞秀です。宝永年間(1704年
   〜1710年)、右衛門盛季継嗣半右衛門盛秀には、三宅道仙二男が養子に入り、清三盛光と名
   乗ります。三宅道仙は元禄年間(1688年〜1703年)に父共々松井寿之に召し寄せられます。
   寿之と道仙娘ツヤとの子が松井豊之です。享保年間(1716年〜1735年)、清三盛光には、仲井
   武兵衛貞秀二男が養子に入り、伴右衛門盛房と名乗ります。寛延年間(1748年〜1750年)、高
   野善右衛門常里二男が養子に入り、松井(田中)清三となのります。
    別家の、大学盛時には、享保年間宇野源七隆久五男が養子に入り、弥次右衛門盛満と名乗
   ります。宇野源七は瀬戸源七のことです。
   松井(田中)、田中、仲井、宇野、瀬戸、高野の縁が出来ました。
    仲井は、善右衛門貞種の妻が、細川陸奥守輝経の嫡女ですから、康之妻自得院の姉の娘で
   す。元禄年間(1688年〜1703年)松井又右衛門盛季末子八十郎が養子に入ります。仲井武兵
   衛貞秀です。元文年間(1736年〜1740年)には、本島市郎左衛門喜季三男が養子に入り、善
   右衛門と名乗ります。本島市郎左衛門喜季二男は、小沢市郎次へ養子に入った小沢忠兵衛満
   清です。
    高野は、善右衛門常里の弟が吉田助郎矩道へ養子に入り、吉田平助経道と名乗ります。
   善右衛門常里の二男が松井清三です。高野を継いだ善二郎常貞は、宝暦年間(1751年〜1763
   年)藤木八右衛門資長二男を養子に迎えます。高野源之進常伊です。源之進常伊には、明和
   年間(1756年〜1771年)橋津彦兵衛正脩末子が養子に入ります。高野平右衛門です。
    藤木は、藤木市助二男が久民又兵衛へ養子に入り久民善兵衛と名乗ります。
    田中は、細川、松井、松井(田中)、田中、田中、仲井、宇野、瀬戸、高野、本島、沢井、小沢、
   藤木、久民、橋津と縁故がひろがります。
    本島は延宝年間(1673年〜1680年)、一郎左衛門元房の弟平七が遠藤次郎左衛門へ養子
   に入ります。一郎左衛門元房には、正徳年間、沢井清右衛門勝重二男が養子に入ります。
   本島市郎左衛門喜季と名乗ります。市郎左衛門喜季の二男が、小沢右兵衛後忠兵衛満清、三
   男が仲井角太夫こと仲井善右衛門です。延享年間(1744年〜1747年)、元文年間(1736年〜
   1740年)のことです。
    遠藤にはその後養子の出入りはありません。小沢は、本島からの養子に先立って享保年間
   (1716年〜1735年)に三上清兵衛正儀二男が養子に入り、元文年間(1736年〜1740年)三上
   清兵衛久遠二男が養子に入っています。小沢五郎右衛門定清、市郎次清遥です。
    三上は、延宝年間(1673年〜1680年)小沢五郎右衛門定清の叔父三上彦左衛門能久二男
   が梶原に養子に入り、剃髪して梶原三実と名乗っています。また、小沢市郎次清遥の弟弥三
   次が、寛保年間(1741年〜1743年)坂井長右衛門へ養子に入ります。坂井三郎右衛門です。
    坂井からは、長右衛門の祖父の弟が片山半兵衛行貫へ養子に入り、片山大右衛門行春と名
   乗っています。
    梶原から、元文年間(1736年〜1740年)三実二男が後藤新兵衛へ養子に行き、後藤助太夫
   と名乗ります。
    吉田には、吉田助市矩通に高野善右衛門常昌二男平助常矩が養子に入ります。吉田平助 
   経通と名乗ります。元文年間のことです。延享年間(1744年〜1747年)には、平田平助経通に
   江見善兵衛重昌二男江見金右衛門二男が養子に入り、吉田平左衛門兼昌と名乗ります。
    後藤は、助太夫の養父新兵衛真昌も養子です。西川伊兵衛の二男です。新兵衛真昌の養父
   助太夫真定の弟武左衛門が平田長太夫隆言に養子に入り、平田長太夫隆豊と名乗ります。
   元禄年間(1688年〜1703年)のことです。宝暦年間(1751年〜1763年)には、芳賀宇左衛門貞
   候二男が養子に入りま、平田左太夫隆休と名乗ります。
    橋津は豊田です、豊田の旧領橋津郷から一時橋津を名乗ります。岡田は頼藤です。
   豊田甚之丞高久に延宝年間(1673年〜1680年)岡田権左衛門正継の末子が養子に入り、豊
   田伝右衛門高達と名乗りますが、後、甚之丞高久に実子が生まれます。この子を、頼藤杢之助
   の養子とします。頼藤浅右衛門信房です。頼藤杢之助とは岡田庄五郎のことです。
    江見は、養子を迎えることはありません。吉田平助経通へ金右衛門二男彦四郎が養子に入っ
   た後、宝暦四年半兵衛義昌二男が三宅道仙へ養子に入り、三宅多三兵衛と名乗ります。
   江見金右衛門の妻は、三宅道仙の妹のようです。江見善兵衛重昌の娘礼と松井豊之の子が
   松井康之です。江見氏は、佐々木左近将監源章経を祖とします。
    田中は、細川、松井、松井(田中)、田中、仲井、宇野、瀬戸、高野、本島、沢井、小沢、藤木、
   久民、橋津、豊田、頼藤、吉田、江見、三宅、遠藤、三上、梶原、坂井、後藤、西川、平田、芳賀
   と縁が出来ています。

    松井の称号を許された竹田、井上、角田、田中四家と家老山本家という松井家中核の家の縁
   故を養子縁組から紐解いて見ました。それぞれの家が養子縁組で結ばれあって、更に、娘の縁
   組を併せれば、全ての家が縁を結んでいるのではないでしょうか。
    松井の称号を併せれば、義兄弟の家に許されており、田中家だけが、殉死の故に名乗ること
   を許されています。但し、戸中で途絶えましたが、志水悪兵衛嫡男加兵衛が松井を名乗ってい
   ます。竹田、井上、角田は足利家に仕えた縁があります。山本は足利没落後、田中は丹波国船
   井が織田信長に属して後、明智光秀に仕えました。明智光秀は細川忠興の舅です。また、角田
   氏は平氏ですが、竹田、井上、山本、田中の氏は源氏を称します。
    それぞれの縁故を並べると
   【竹田】
    細川、松井、井上、山本、前川、山口、橋本、山本武右衛門、見崎、中山、井上仙右衛門、
    伊藤、安富
   【井上】
    細川、松井、橋本、後藤三右衛門、白井、田中、山口、山本、竹田、前川、井上仙太夫、木本、
    中川、堀、山本武右衛門、見崎
   【山本】
    細川、松井、竹田、井上、山口、橋本、後藤(三)、井上(仙)、山本(武)、見崎、中山、安富
   【角田】
    細川、松井、志水、角田、荒木(松井采女康秀の系)、荒木(仁平次元常の系)、渡瀬、沢村
    堤、瀬戸、・宇野、志水、沢井、下津、近藤、本島、仲井、田中(松井)、小沢、三上、坂井、
    後藤、西川、平田、芳賀、中西、柴山、堀口、大鳥、菅沼、加々見、当主松井寿之。
   【田中】
    細川、松井、田中(弥)、仲井、宇野、瀬戸、高野、本島、沢井、小沢、藤木、久民、橋津、豊
    田、頼藤、吉田、江見、三宅、遠藤、三上、梶原、坂井、後藤、西川、平田、芳賀。

    となり、養子縁組からは、竹田・井上・山本と角田・田中と二別しているようです。
   女性の縁組はどうでしょうか。


      二、 女性の縁組
    女性の縁組については、僅かな記録しか有りません。細い糸を辿ってみましょう。

      (1) 康之の姉、康之の妻の姉弟

    松井(角田)先祖附は半右衛門盛季、外記元勝の項に「角田宗伊妻は春光院様御姉にて、
   後に松林院と申候、三斎様養父細川陸奥守輝経入道宗玄老の御内室清光院殿の御妹にて
   御座候」と記しています。康之之長姉は、細川陸奥守輝経に嫁し、次姉は、角田因幡守籐秀
   (剃髪・宗伊)に嫁いでいます。松井(角田)半右衛門盛季・外記元勝と松井興之・興長は従兄
   弟でした。
    松井(角田)半右衛門盛季の妻について「半右衛門妻は、荒木山城守行重女にて、半右衛
   門戦死のとき妊身ニて候を、半右衛門弟仁平次元常に嫁娶被仰付、遺跡仁平次ニ相続被仰
   附け候、その後平産の男子幼名松井小三または新七郎安秀・・・・」又、別家荒木丹右衛門先
   祖附では「先祖荒木采女康秀母は荒木山城守行重女にて御座候ニつき、外戚の苗字荒木と
   ・・・・右荒木山城守行重は、丹波郡主にて惟任日向守旗下に属し申候。惟任没後後藤孝公召
   出し、千石被遺置、長岡玄蕃興元に属し、その後播州に立退き・・・・子孫熊本に在り・・・・」と
   記載します。
    松井(角田)外記元勝の妻について、「河内儀は自得院様の御弟ニて、御知行七百石ニて
   御番頭被仰付候処、病死にて男子無御座女子一人御座候処外記妻ニ成申候」と先祖附です。
   河内とは、自得院弟松井河内吉長のことです。外記元勝は康之の姪の婿です。

    松井(竹田)先祖附長助項では、「梅松軒嫡子竹田藤松母は沼田上野介光長主の娘ニて、
   春光院様奥様自得院の御姉にて御座候・・・・」と述べます。竹田梅松軒と自得院の姉の子が
   松井(竹田)長助定勝です。長助定勝の妹が松井(井上)紀伊之勝の妻です。長助定勝と紀伊
   之勝は義兄弟となりました。
    延宝三年、松井(竹田)角左衛門定信に前川次助が養子婿となりますが、竹田の娘は、山本
   弥左衛門の娘を養女にしていたものでした。松井(竹田)先祖附は、角左衛門定信の項に、「延
   宝三年六月前川彦右衛門金重娘にて、角左衛門孫にて御座候を養女に仕置候」と述べます。
   角左衛門定信の娘が山本弥左衛門金重の妻であるわけです。山本弥左衛門金重は後に、家
   老家山本家督をついで源太左衛門金重を名乗ります。

    松井(井上)先祖附紀伊之勝の項には、「三男井上四郎兵衛正秀儀、紀伊守後妻ニ出生仕
   候、此の後妻は、自得院様の御従弟にて・・・・」と記し、付箋に、「御由来附、松井市正之儀は
   本名苗井上にて・・・・康之召抱え松井氏を与え候、同人妻自得院御育置候竹田梅松軒女を
   嫁娶せ、・・・・梅松軒奥方は自得院様の御姉・・・梅松軒の女は自得院御姪の御続・・・・、」
   と記載します。
    竹田梅松軒の妻は、松井康之の妻自得院の姉ですから、松井(井上)紀伊之勝は、康之姪
   婿になります。
    松井康之妻自得院の父沼田上野介光長の妹が、細川藤孝の妻光寿院です。細川藤孝が妻
   の兄の娘を自分の養女にして松井康之に嫁がせました。康之の姉、康之の妻の姉の縁から、
   角田、竹田、井上と、松井の称号、山本を加えた家老家之成り立ちが浮かび上がります。

    志水悪兵衛嫡男清水加兵衛は、「加兵衛に松井仁平次元常娘縁組被仰付」と先祖附に記し
   ます。松井仁平次元常は角田仁平次です。清水と角田は姻戚であったわけです。さらに、志水
   悪兵衛の孫志水孫八郎重明は、先祖附に妹の嫁ぎ先を記載しています。「妹儀は恵妙院様御
   伽ニ被成御付御側ニて成長仕、後松井角左衛門定詰に嫁娶被仰付」といいます。志水孫八郎
   重明の父は、志水悪兵衛の三男文右衛門清重です。文右衛門清重の兄、悪兵衛の二男が下
   津半右衛門です。
    松井角左衛門定詰は、松井(竹田)角左衛門のことと思われます。松井を称し角左衛門を称
   するのは、竹田角左衛門です。ただ、角左衛門定詰という名が先祖附に見当たりません。
   年代的には、孫八郎重明が家督を継いだ元和七年、暇を下された元和八年の記載が先祖付に
   ありますし、弟又左衛門重一が元和七年九歳との記載があります。元和から寛永にかけてのこ
   とですから、延宝に没した松井(角田)角左衛門と思ってよいのではないでしょうか。松井の称号
   を許された家が、松井一門と現実の縁を結んでいく姿が見られます。

    松井の称号を許されたもう一つの家田中には、「二男田中牛之助盛秀は幼年より直之公御側
   に被召仕・・・・又右衛門外祖父坂本駿河定近跡式御取立の御内意御座候・・・・牛之助を嫡子
   ニ被仰付・・・・」と先祖附に記載します。坂本駿河と姻戚であるわけです。
    仲井先祖附に、「仲井善衛門貞種は、・・・・剃髪自安と改め・・・・自安妻は忠興公御養父細川
   輝経公の御嫡女ニて、輝経公の御内室は康之公の御姉にて候」と述べます。仲井善兵衛貞種
   の妻は、松井康之の姉の子です。細川忠興とは系譜上兄弟です。越前宰相松平忠直に仕えま
   す。忠直没落後、仲井八郎右衛門が、松井采女康秀を頼り豊前小倉で松井興長に召出されま
   す。興長から八郎左衛門は、父康之姉の孫です。同じく松井采女康秀も父康之次姉の孫でした。
   養子縁組で述べましたが、元禄三年仲井に松井(田中)又右衛門盛季末子八十郎が養子に入
   ります。先之志水・竹田の縁組に同じく、田中・仲井の養子縁組で田中は松井一門を構成してい
   きます。

     (2) 松井一門を繋ぐ

    先祖附に記されている女性を追っているうちに松井親族、家老家に成り立ちに気づくことが出
   来ました。女性について記載する家が、松井称号御免、家老の家以外に沢井、大鳥、三宅の三
   家あります。簡単なものです。沢井先祖附は、「横井助之進方娘と縁組被仰付候」と記します。
   大鳥先祖附は、「大鳥知庵幸正は・・・・母方の姓今井ニ改め候」、三宅先祖附「道仙二男里見
   円助義は、・・・・松井半右衛門養子ニ被仰付・・・・左角と改後松井清三と改申候・・・・道仙妹婿
   合志養琢と申候は江見専太夫弟にて候」と記します。松井(田中)先祖附清三盛光の項では「実
   は三宅道仙二男ニて、外戚の氏を用い里見左角と申候」と述べます。大鳥知庵の妻は今井氏、
   三宅から合志氏に嫁ぎ、三宅道仙の妻は里見氏からと少しばかり婚姻関係を見る事が出来ます。
    ところで、松井当主と女性について先祖由来附に記載があります。松井寄之が細川忠興と真
   下梶之助元重娘サイとの子であることは先に述べました。サイは後に長岡(沼田)勘解由延元
   に嫁ぎます。松井興長には男子・女子とも実子が無く、細川忠興六男寄之が家督を継ぎます。
   興長の妹タケという女子が有りました。タケは、長岡(三渕)右馬助重政に嫁ぎます。二人の子
   が寄之の妻古宇です。このように、松井当主の家系については先祖附に明確です。
   松井・細川・長岡の一門一族については、多く世に知れているでしょう。
   此処では、松井家臣と当主を結ぶ女性を探してみます。
    直之は、寄之と古宇の子です。烏丸大納言資慶娘を妻に娶ります。直之と烏丸大納言資慶娘
   の子が寿之です。
    寿之の妻は長岡左門興知の娘です。寿之の娘染の母が、中西五三右衛門の後嫁となります。
   「庶母大久保某女シカ後嫁中西五三右衛門」と先祖由来附です。染の弟克之(夭逝)、豊之、守
   之(二十歳没)、真峰(郡源太夫真喬養子・郡織衛)、同妹奈野、留知の母は三宅道仙の娘ツサ
   です。先祖由来書附は、「嫡母長岡左門興知モト、庶母三宅道仙女ツサ」との記載です。
   また、弘之の母は上原氏です。「庶母上原某女チク」と述べます。弘之は松井分家古城松井家
   松井典礼周之に養子に入り家督を継ぎます。後、弘之母上原氏は、荒木某へ後嫁します。
   「庶母上原某女チク後嫁荒木某」と先祖由来記です。上原先祖附に、「安太夫妻には追って従
   求馬様御扶持方被為拝領候」と記します。安太夫は安太夫正次のことです。安太夫政次の妻は、
   松井寿之娘古代の母です。
    求馬様とは、古城松井の初代裕之と四代賀之の何れかです。政次嫡男安太夫貞徳が十二歳
   から、求馬御側に召出され、古城松井の賀之付を命ぜられることを考え合わせると、弘之の母、
   「庶母上原某女チク、後嫁荒木某」は上原安太夫政次の娘かも知れません。荒木某とは、荒木丹
   太夫廉貞でしょうか。丹太夫は松井寿之に召出され、松井豊之に仕えます。
   しかし、何れも推測です。確かなのは、松井豊之の母は、三宅道仙の娘ツサであるということです。
   三宅道仙は当主の外戚になりました。また、上原安太夫政次の妻は、松井寿之から下された某
   女スヤでした。
    豊之継嗣営之は、野村寿庵娘との間に澄昭をもうけます。澄昭は後の三渕十左衛門です。
   営之継嗣微之と芳賀宇左衛門娘との子が松井章之です。家督は、養子松井賀之二男督之が継
   ぎます。章之は督之の家督をついで長岡佐渡を名乗ります。

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