田辺城籠城に関する参考文書について

 慶長五年細川幽齋玄旨は僅かの家臣と共に田辺の城にあった。当時忠興・忠隆らの細川本隊は、上杉景勝の謀叛を制すべく出陣した徳川家康に随伴して駒を進めていた。その年の初め、老臣松井佐渡は細川の新たな領地豊後木付に出立し、無事に受取りを終えた。しかし豊後の旧主大友義統が再び領地すべく兵を進め、西の関が原と云われる戦に巻き込まれる。

 一方忠興内室ガラシャ夫人は、大坂玉造にあって忠興の留守を守っていたが、内室を人質にすべく石田三成の手勢により邸を包囲され生害する。悲しい報せを受けた幽齋ら500余の城兵は、小野木縫殿助を主将とする15,000の兵に囲まれ籠城を余儀なくされた。激しい攻防が繰り返される中、古今伝授の法の滅亡を憂慮した禁裏は、八条宮をして二度にわたり停戦の斡旋を行った。

 幽齋は武人として最期をまっとうすべくこれを拒否したが、後陽成天皇の勅使が派遣されるに及んでついに開城して城をでた。その間40数日にわたり、15,000の敵兵を田辺に釘付けにしたことは、関が原の勝敗に大きな影響を与えた。開城(9月14日)の翌日、豊前では大友義統が松井康之の下に降り、翌々日関が原では家康軍が大勝利をおさめ、徳川の時代の礎となる記念すべき日となった。細川家も忠興内室ガラシャ夫人の悲しい死があったものの、豊前の太守への足がかりとなる苦難の、そして雄飛への一年であった。

 田辺城籠城に関する貴重な文書が、熊本県立図書館の上妻文庫に収められている。
 田辺城籠城については種々著作で紹介されているが、これらの文書は当事者が書き残した貴重なレポートであり、ここに全文を公開することとした。

  1. 中村甚左衛門田邊御籠城御使者一件
  1. 北村甚太郎覚書

以上の史料の訓下しの作業については、東京在住の寺井正文氏にご協力いただいた。深甚なる感謝の意を表したい。関連資料として、津々堂電子図書館の「三カ谷田辺記」、及び「細川忠興軍功記」も合わせてお読みいただければ幸いである。 
 又、ぴえーるさんのサイト「白鷺×城下町」の「関原軍記大成」にもお訪ねいただきたい。
 その他、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにより「常山紀談」「日本戦史」「武士道美譚」などから、該当項を見ることが出来る。

2004/12/17   管理人・津々堂